天国は愛で満ちている

友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
『ヨハネによる福音書』第15章13節

こんな話があります。ある人が地獄と天国の様子を見せられました。地獄の人々はたいへん痩せ衰えていました。鍋にはたくさんご馳走があるのですが、スプーンの柄が長すぎて、自分の口に運べないのです。ああ、この長いスプーンこそ地獄で与えられる罰だ、目の前のご馳走を食べられないなんて残酷な罰だと思いました。次に、天国をみたら、なんと天国の人々も、地獄とまったく同じご馳走の鍋と長いスプーンなのでした。ところが、天国の人々は、それを自分の口に運ばず、向こう側にいる兄弟姉妹に食べさせています。誰もがそうしているものですから、みんな美味しそうに鍋の食事をいただいているのでした。

ロマ書(165)イエス様が律法を確立する

それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。(3:31)

 信仰は、律法を無にするのではなく確立するものです。イエス様ご自身も、こう言われました。

わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。

 信仰が律法を確立するとは、どういうことでしょうか。信仰をもてば律法を守れるようになるのでしょうか。そうだとしたら、私たちは自分が信仰者だという自信がもてません。信仰者であるにも関わらず、しばしば神様に従えない事実があるからです。そして、こう考えるのです。自分には、信仰が足りないのだ。信仰をもてば、きちんと神様に従うことができるはずだ。もっともっと神様に喜ばれる人間となれるように努力をしなけば、と。ところが、そうするとこんどは、偽善者になってしまう。信仰がないのに、行いや言葉で、信仰の足りないところをあるように見せかけようとしてしまいます。神様に従えないのは、信仰がないからです。しかし、人間的な努力によって、神様に従おうとすれば、律法主義者になってしまうのです。

 どうすればいいのでしょうか。信仰のみだと言って、律法すなわち神様が求め給うことを無視すれば、行いのない死んだ信仰となってしまい、信仰もないのに行いや言葉を追い求めれば、律法主義者になってしまう。信仰によって律法を確立するとは、いったいどういうことなのでしょうか。
 そこで、まずイエス様の御言葉に注目したいと思います。イエス様は、「わたしが来たのは、律法を完成させるためである」と言われました。イエス様が、律法を完成させるのです。

謙遜の道を歩む

破滅に先立つのは心の驕り。名誉に先立つのは謙遜。
『箴言』第18章12節

感謝の言葉を受けると花園にいるような思いがするが、不平不満を聞くと有毒ガスにあてられたような気がすると言った人がいます。言い得て妙とはこのことでしょう。自分が不平不満の有毒ガスにあてられるときもあれば、自分から有毒ガスが出ているときもあります。自分が被害者だと思うから不平不満を出てくるのですが、有毒ガスの発することによって自分も加害者になっているのです。自省してみると、不平不満が多いときは、自分が傲慢になっている時です。心のなかで他者を見下している時です。誰にでもそんな時がありますが、イエス様を思い起こし、自分を省みて、謙遜の道を歩む者になりたいものです。

ロマ書(164)律法と信仰は表裏一体

それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。(3:31)

 信仰があるから、律法は必要ないということはありません。私たちは、しばしばこう考える。律法は守れない。しかし、信仰があるから大丈夫だ、と。そうではありません。《信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。》と、聖書は告げています。律法と信仰は、ちょうど「表と裏」、つまり行いと心の関係にあるといえます。信仰があれば、当然、神様を敬います。それは、神様に聞き、神様に従うという行いによって現れます。これが律法の求めるところを満たすということです。上記の御言葉で言えば、《律法を確立する》ということです。

 『ヤコブの手紙』第2章14~17節には、こう語られています。

 わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。

 行いが伴わない信仰は、死んだものであると言われています。神様に従えなくても、信仰があるから大丈夫などと安心していてはいけないのです。神様に従わない信仰はありません。信仰があれば、神様に従うのです。信仰と律法は、表裏一体をなすのです。

大丈夫

 イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」
『マタイによる福音書』第14章27節

子どもの頃、毎日、いろいろな恐れがありました。母は、わたしのいろいろな心配に、いつも「大丈夫だよ」と笑って励ましてくれました。母を見ながら、大人になれば何も怖くなくなるのかと思っていましたが、そうではありませんでした。相変わらず人生は恐れや不安に満ちています。頼りに思えた親も、実際は怖れや不安と戦いながら生きていたのだともわかりました。それでも子どもに安心を与えることができたのは、信じさせてくれる愛があったからです。いまはイエス様が、大きな愛をもって、私に「大丈夫だよ」と語りかけてくれます。

日本基督教団 荒川教会

牧師 国府田祐人

Author:牧師 国府田祐人

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