ローマ(150)信仰は絵に描いた餅ではない

では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。(3:27)

 信仰は、ウィンドーショッピングではありません。聖書を読み、教会でお話を聞き、「まったくそのとおりだ。そのように生きることができたら、どんなに豊かな人生にあんるだろう」と納得し、あるいは感激さえしたとしても、それだけで終わったら、自分は何も変わりません。「絵に描かれた餅」と同じです。イエス様の救いは、そんなものではありません。私たちは、実際、イエス様の救いを自分のものにすることができます。その救いを生きることができるのです。

 イエス様の救われた命とは、どのような命であるか。救われた人は、どのような人間になるのでしょうか。それが、27~31節に語られていることです。一つは、《人の誇りは・・・それは取り除かれました。》(27節)ということです。もう一つは、《割礼のないものをも信仰によって義としてくださる》(30節)ということです。三つ目のことは、信仰は、《律法を確立する》(31節)ということです。

 イエス様がご自身の血によって成し遂げられた神の救いは、わたしたちの人間的な誇りを打ち砕きます。割礼あるものも、割礼なき者をも、等しく神の前に義とします。罪のゆえに神の栄光を表せなかった人間を、神の律法を全うする人間にします。そして、それはすべて、信仰によることなのです。信仰によって、イエス様の救いは、私たちのいのちとなるのです。信仰によって、自分ではなく、イエス様を主と仰ぎ、イエス様の命を生きる者になるのです。それが《信仰の法則》です。

御言葉に聞く

確かに、主はどもる唇と異国の言葉で
この民に語られる。
『イザヤ書』第28章12節

言葉が誤解され、ねじ曲げられ、自分の思いが伝わらないもどかしさ、悔しさを経験することがあります。しかし、誰よりも、そういう思いをしてこられたのは、神様ご自身ではないでしょうか。愛を伝えているのに恨まれ、導こうとしているのに反感を買い、救いを与えようとしているのに、疑われる。受肉した神の御言葉であるイエス様の十字架に磔にされたことが物語っているように、御言葉はつねに、自己義認する人間によって、迫害されているのです。それゆえ、御言葉を聞くためには、虚心坦懐をもって、聖霊の導きを祈りつつ、全身全霊を傾けて聞く必要があります。

ロマ書(149)イエス様がしてくださったことによって

このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。(3:26)
 イエス様が、ご自身を《罪を償う供え物》として捧げられた、もうひとつの目的は、イエス様を信じる私たちが、神の前に義とされるためです。私たちが、聖なる神の子、神の僕とされること、それが私たちの義です。わかりやすく言えば、何があっても、私たちは、神様がもっとも愛してくださる者となり、もっとも大切にしてくださる者となるということ、これが神の前に義とされるということなのです。

 このすべてを成し遂げるのは、律法を守ることによってではなく、割礼を受けることによってでもなく、ただイエス様の十字架の恵みであると、福音の中心が語られているのです。

 人生には、思いがけないことがさまざまにあり、ともするとそれに振り回され、怒ったり、泣いたり、恨んだり、呪ったりします。しかし、何があっても、どんな日でも、イエス様の十字架からわたしたちの救いが訪れます。イエス様は、神が神とされるために、そして私たちが神様の寵愛を受ける者とされるために、ご自身を捧げて下さったのでした。それならば、私たちが幸せでないはずがありましょうか。何があっても、そのすべてのことにおいて、神様は、自ら私たちの神である証しを立ててくださるのです。そして、私たちは、どんな日も、私たちに対する神様の愛を信じて、神様が自ら立ててくださる証しを仰ぐことができるのです。

報酬ではなく恵み

五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。
『マタイによる福音書』第20章9-10節

朝からたくさん働いた人も1デナリオン、夕方5時に来て少し働いた人も1デナリオン。正しい報酬とは思えません。この譬話は、「罪の赦し」という神様からの贈り物は、決して報酬ではないことを物語っています。それは報酬以上のものです。正しさ以上のものです。正しさをもってではなく限りない愛をもって、報酬としてではなく溢れる恵みとして、神様はこの贈り物をお与えくださるのです。

ロマ書(148)十字架は神の義を示す

このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。(3:26)
 イエス様は、こう言われました。

 あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。
(『ヨハネによる福音書』第16章33節)

 救いとは、苦難がない人生ではなく、苦難に負けない人生、負けないどころかそれを糧にさえする人生を手に入れることです。それを手に入れるためには、罪人である私たちの罪が赦され、きよめられ、私たちが神様のものとされなければなりません。そして、神様の愛と力で支配された人生を生きる者とされなければなりません。それは、律法を守ることによってではなく、イエス様が成し遂げてくださった贖いの御業によるのです。

人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。(3:23)

 キリスト・イエスによる贖いの業とは、イエス様がご自身を、神様と、人に、完全に捧げられたということです。

神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。(3:25)

 イエス様が、ご自身を《罪を償う供え物》として捧げられたのは、《神の義をお示しになるため》です。神が神とされるためです。神様がどんな時にも力ある方であり、私たちの希望であること、これが神が義とされることです。
日本基督教団 荒川教会

牧師 国府田祐人

Author:牧師 国府田祐人

リンク
最新記事
カテゴリ
最新コメント
カレンダー
05 | 2017/06 | 07
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -
FC2カウンター
QRコード
QR
グーバーウォーク
検索フォーム