ロマ書(179)聖書に基づく信仰

 聖書には何と書いてありますか。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」とあります。(4:3)

 行いではなく、信仰によって救われるという信仰義認は、イエス様が世にいらして急にそうなったのではなく、アブラハムの時からそうだったのだと言われています。「アブラハムの時から」というのは、どういうことかと言いますと、神様の救いの歴史が始まった時から、ということです。その事実を、《聖書には、何と書いてありますか》と、聖書に書かれていることから説明しようとしています。

 信仰のことは、聖書に基づいて語られることが大事なのです。信仰者が、自分の考えたこと、体験したことを語ることがあります。けれども、それがどんなに勉強したことであっても、あるいは感動的な体験であっても、聖書に基づいたものであるときだけ意味を持ちます。聖書を読みもせず、私はこう思う、こういう経験をした、だから神様とはこうである、信仰とはこうであると言っても、意味がないのです。

 実は、わたしも若い頃に、祈りのなかで、聖霊に満たされて異言を語るという不思議な体験をしたことがあります。とても大きな喜び、感動に満たされました。しかし、私は、決してひとに言いませんでした。そのかわりに聖書を読みました。自分の体験は聖書に何と書いてあるのか。聖書を通して学び、聖書に書いてあるとおりのことが自分に起こったのだということを知るまで、誰にも言わなかったのです。そうでないと、自分の体験を絶対化して、自分の体験が信仰になってしまうと思ったからです。

 妖怪を見たからここは神様の山だ。病気が治ったからこれは神様の水だ。自分のことを言い当てたからこの人は神様のお使いに違いない。クリスチャンの信仰は、それと同じであってはいけません。クリスチャンも不思議な体験、奇跡を経験することでありましょう。しかし、聖書に基づいて、信仰を育てなければいけないのです。

ロマ書(178)信仰の深み

 聖書には何と書いてありますか。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」とあります。(4:3)

 信仰は、表面的には、きわめて単純なことです。しかし、裏打ちがない信仰には深みがありません。イエス様は、「種を蒔く人のたとえ」のなかで、石だらけの土のないところに落ちた種は、土が浅いのですぐに芽を出すが、根がないためにすぐに枯れてしまうと、仰っています。

石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。

 根は土の中に隠れています。しかし、大水が来たり、風が吹いたりしたときに、きちんと根を張っていないと、それがはっきりとしてしまうのです。信仰が、確かな揺るぎないものとなるためには、深く根を張った信仰が必要です。

 実は『ローマの信徒への手紙』も、そういうことを大事にして、福音を伝えています。この書の前半の中心は、「信仰による義」という点にあります。良い行いによってではなく、イエス様を信じる信仰によって、救われるのだということです。このことは、3章の後半で、明快に語られました。ところが、この書は、さらにそれを裏打ちするために、第4章で、アブラハムの話をするのです。

 すこし乱暴なことを言いますが、文脈だけを考えれば、この4章はなくてもいいのです。4章をとばして5章に進んでも、話は通ります。しかし、『ローマの信徒への手紙』は、その前にアブラハムの話を始めます。私たちの信仰を、もっと確かなものにするために、アブラハムから始まる神の救いの歴史を物語り、聖書全体が、イエス様こそ救い主であることを語っていることを、分からせるためなのです。

ロマ書(177)福音の表と裏②

聖書には何と書いてありますか。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」とあります。(4:3)

 「美しい門」という神殿の門で、足の不自由な男が、物乞いをしていました。ペトロは、「金銀は、私たちにないが、私たちにあるものをあげよう。イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言って、彼の手を取り、立ち上がらせますと、奇跡が起こり、彼はたちまち強められ、神殿のなかを歩き回り、踊り回って、神を讃美し始めたのでした。ペトロは、この機会をすかさず捉えてイエス様を宣べ伝えます。たくさんの人がイエス様を信じましたが、神殿警察や祭司たちが集会を解散させ、ペトロとヨハネを逮捕してしまいました。翌日、二人は大祭司のいる法廷に召喚され、取り調べと裁判が行われます。その時にも、ペトロは臆することなく、どうどうイエス様を証しします。

この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。・・・ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。
(『使徒言行録』第4章10~12節)

 ペトロは、はじめに、「イエス・キリストによって、この足の不自由な人は救われたのだ」と言い、その後で、「イエス・キリストによらなければ、だれも救いは得られません」と言いました。福音の表と裏が、ここに語られているのです。

 「イエス様によって救われる」、「イエス様によらなければ救われない」、これは同じ事を言っているのです。しかし、聞いたときの印象が違います。「イエス様によって救われる」と言えば、救いがさやかな形でひらけてくるように思える。しかし、「イエス様によらなければ救われない」と言えば、救いの間口が急に狭くなったように思えてくるのです。

ロマ書(176)旧約に学ぶ大切さ

聖書には何と書いてありますか。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」とあります。(4:3)

 『コリントの信徒への手紙二』第3章には、こういうことが書かれています。

彼らの考えは鈍くなってしまいました。今日に至るまで、古い契約が読まれる際に、この覆いは除かれずに掛かったままなのです。
 
このため、今日に至るまでモーセの書が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。

 考えが鈍くなり、心に覆いがかかったまま、律法を読み、また聞いているから、律法を正しく受け止めることができなかったのだ、というのです。その結果、イエス様の福音も、受け入れることができなかったのだというのです。

 ユダヤ人だけの問題ではありません。ユダヤ人に限らず、人間は律法が好きなのです。これができたと喜んでみたり、あれこれをしてないと人を裁いてみたり、律法主義というのは、それを守ることによって、安心感や優越感をもたしてくれるのです。そのような過ちに、私たちクリスチャンは陥ってしまう可能性があるのです。

 だからこそ、私たちは旧約聖書を読まなければなりません。そして、信仰によって救われるとはどういうことかを学ばなければならないのです。アブラハムは、わたしたちすべての信仰の父であって、ユダヤ人の父でもなければ、割礼の父でもありません。そのことを徹底して知ることによって、私たちはイエス様の信じる信仰によって義とされる生き方を知ることになるのです。

ロマ書(175)アブラハムは信仰によって救われた

聖書には何と書いてありますか。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」とあります。(4:3)

 アブラハムの子孫が、やがてユダヤ民族を形成します。そのなかから、モーセが現れ、神様はモーセを通して、ユダヤ人に律法をお与えになりました。さらに時代が進み、ダビデが登場します。神様は、ダビデにあなたの子孫からメシアが誕生することを約束されました。このようなアブラハムに始まる神の民ユダヤ人の歴史があって、その中にイエス様がお生まれになったのです。

 そして、『ローマの信徒への手紙』第4章が明らかにしていることは、アブラハムの時から、人間は、行いの法則によってではなく、信仰の法則によって、救われるということは、少しも変わっていないということです。神様は、つねに人間の行いによってではなく、信じる者を恵みによって祝福なさってきたのだ。そういうことが、『ローマの信徒への手紙』第4章に書かれているのです。

では、肉によるわたしたちの先祖アブラハムは何を得たと言うべきでしょうか。もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。聖書には何と書いてありますか。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」とあります。(4:1-~3)

 第3章で、神様は、律法に守ることによってではなく、イエス様を信じる信仰によって救って下さるのだということが、力強く語られていました。しかし、そもそも神様は、はじめから、人間を信仰によって救おうとされてきたのです。それ以外の救いの道などなかったのです。ユダヤ人たちは、それをずっと勘違いしてきたのでした。


日本基督教団 荒川教会

牧師 国府田祐人

Author:牧師 国府田祐人

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