ロマ書(157)旧約聖書の一神教信仰

それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。(3:29-30)

 一神教とはいかなる信仰か、私たちはきちんと聖書に聞かねばなりません。すると、旧約聖書と新約聖書では、唯一の神様に対する信仰の姿勢が違っていることに気づきます。旧約聖書の唯一神への信仰は、偶像礼拝の禁止と結びついています。神様は天地万物の造り主であり、唯一の神様です。ほかに神様はいません。太陽も、石も、動物も、草木も、すべては被造物であって、神様ではありません。偶像とは、人間が造り出した想像上の神様を、神様として信じることです。

 人間が、神様を造り出すとは、金の小牛をつくって、これがあなたがたの神様だというようなことばかりではありません。有限なものに、無限の意味や究極的な価値を与えること、これが偶像礼拝です。生きるために大切なものはひとつとではありません。衣食住も大切です。お金も大切です。健康も大事です。仕事も大切です。家族も大切です。国家も大事です。しかし、そのようなものが、一時的に、価値を持ち、目的となることがあっても、究極的な目的となってはいけないのです。そうなってしまったら、そこからしか物事を考えられなくなる。そういう価値観、世界観に生きるようになる。それは間違った生き方です。虚構のうえに立つ価値観、世界観です。それが偶像礼拝です。

 偶像礼拝は、単に異教徒たちの信仰ではなく、私たちの生き方に関わることです。まことの神様を信じると言いながら、有限なものに、無限の価値を与えるような生き方をすれば、偶像礼拝です。旧約聖書は、そういう偶像礼拝を、かたく禁じます。そして、私たちの造り主であり、私たちの人生の主である、まことの神様を信じて生きることを求めるのです。

ロマ書(153)自分を誇る信仰

では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。(3:27)
 聖書は《法則》と語ります。法則とは結果を得るための条件や道筋です。これを外れたら、求める結果は得られません。つまり《行いの法則》《信仰の法則》とは、救いへの条件、道筋、つまり福音理解のことを言っているのです。

 石川啄木の『一握の砂』に、こんな歌があります。

 友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
 花を買ひ来きて
 妻つまとしたしむ


 友だちを見ると、自分の誇りが打ち砕かれて惨めな思いになってしまう。その傷ついた心を慰めるために、妻に花を買っていく。妻は、自分が買ってきた花を喜んでくれる。それが、自分の砕かれた自尊心を慰めているのだ、という歌です。気持ちは、とてもよく分かる歌です。

 しかし、友に対しては保つことができない自尊心を、代わりに妻が満たしてくれる。律法を守れない代わりに、イエス様を信じる。律法を守れない自分の惨めさを、イエス様を信じる熱心さによって埋め合わせる。このような信仰は、《信仰の法則》とは言えません。自分の信仰を誇りとし、「あなたは信じないから救われないのだ」、「信仰が弱いから祝福されないのだ」と、信じない者たち、信仰が弱い人たちを、裁くようになるのが目に見えています。それは、信仰という形をとっていますが、原理的には、《行いの法則》です。

 問題は、行いか信仰かではありません。救いへの道筋、条件が福音的であることなのです。

ロマ書(152) 自己実現の方便としての宗教

では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。(3:27)
 世界的救済などといいながら、個人の内面的幸福感という矮小化された救いを求めているのは、テロリスト集団イスラム国と同じです。彼らは自分たちの世界を実現するために、自分と違う人々を悪とみなし、平気で殺してしまうのです。日本からイスラム国に入ろうとした若者もいました。彼はイスラム教徒ではなく、特別な思想信条があるのでもありませんでした。ただ、この日本に、自分の居場所がない。生きづらい。それだけの理由だったのに驚きましたが、それはオウム真理教のときも同じだったと思います。自分ひとりの幸せ、救いだけを追い求めている。その結果、救いといっても、社会からかけ離れたところで、自分一人の満足を楽しむことに過ぎなくなっているのです。別の言い方をすれば、信仰とか、神様も、自己保全や自己実現のための方便になってしまっています。

 イエス様は、こう言われました。

わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。

 信仰は、自己実現の方便ではありません。むしろ、それを捨てて、イエス様を中心に生きる。自分を主語にして、「わたしが、わたしが」という人生ではなく、イエス様を主語にして生きる。そうすれば、イエス様が、わたしのなかに生きてくださる。そこに、罪に囚われた自分からの解放があり、神の子として生きる救いがあるのです。これが信仰です。

ロマ書(151)矮小化された救い

では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。(3:27)
  オウム真理教による地下鉄サリン事件から20年以上経ちます。当時、オウム真理教のみならず、幸福の科学などオカルトめく宗教が次々と誕生し、若者たちのブームを引き起こしていた時期です。統一協会の霊感商法が社会問題として騒がれたのも、この頃でした。わたしは、これをバブル経済の発生と崩壊よる日本社会のひずみだと考えます。

 とくに影響を受けたのが、若者たちです。フォークソング的な四畳半アパートの若者たちのライフスタイルが終わり、大人の消費社会に巻き込まれていきます。スキーとか、サーフィンとか、ジュリアナ東京とか、格好はいいけど、軽薄化していくのです。他方で、流行に乗れない若者たちが出てきます。ある意味、真面目な若者たちです。しかし、高度成長期が生み出した厳しい学歴社会のなかで、個性が否定され、与えられたことをきちんとできることだけが求められてきた若者たちは、自分で考えることができない。そういう若者たちが、生きる拠り所を求めたのが、オカルトとか、疑似科学、スピリチャルといわれる新宗教だったのではないでしょうか。

 その特徴は、世界救済などと宣伝しながら、自分一人の内面ばかりを見つめる宗教だったということです。しかし、教団のなかで達成した幸福感は、教団のなかでしか通用しません。普通は、それはおかしいと思うのですが、マインドコントロールがあり、また自分で考える力を失った若者たちの弱さがあり、教団を離れたところで行き場がない現実があり、畢竟、教団を絶対化し、世の中を否定するという発想に陥ってしまうのです。彼らの世界救済とは、世界がそっくり自分たちの教団になることにほかなりませんでした。

ローマ(150)信仰は絵に描いた餅ではない

では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。(3:27)

 信仰は、ウィンドーショッピングではありません。聖書を読み、教会でお話を聞き、「まったくそのとおりだ。そのように生きることができたら、どんなに豊かな人生にあんるだろう」と納得し、あるいは感激さえしたとしても、それだけで終わったら、自分は何も変わりません。「絵に描かれた餅」と同じです。イエス様の救いは、そんなものではありません。私たちは、実際、イエス様の救いを自分のものにすることができます。その救いを生きることができるのです。

 イエス様の救われた命とは、どのような命であるか。救われた人は、どのような人間になるのでしょうか。それが、27~31節に語られていることです。一つは、《人の誇りは・・・それは取り除かれました。》(27節)ということです。もう一つは、《割礼のないものをも信仰によって義としてくださる》(30節)ということです。三つ目のことは、信仰は、《律法を確立する》(31節)ということです。

 イエス様がご自身の血によって成し遂げられた神の救いは、わたしたちの人間的な誇りを打ち砕きます。割礼あるものも、割礼なき者をも、等しく神の前に義とします。罪のゆえに神の栄光を表せなかった人間を、神の律法を全うする人間にします。そして、それはすべて、信仰によることなのです。信仰によって、イエス様の救いは、私たちのいのちとなるのです。信仰によって、自分ではなく、イエス様を主と仰ぎ、イエス様の命を生きる者になるのです。それが《信仰の法則》です。
日本基督教団 荒川教会

牧師 国府田祐人

Author:牧師 国府田祐人

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