ロマ書(147)神の義が全うされることが救いである

このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。(3:26)
 幸せになろうと願うことは大事なことです。しかし、そのためには、何がなんでも、自分の思い通りにしようとする考えを、改める必要があります。自分の願いがことごとく実現することではなく、私たちを愛してくださる、神様の御心が、わたしたの人生のなかに実現することによって、私たちはほんとうの意味で幸せな者となるのです。

 もう一度、『ローマの信徒への手紙』第3章21~26節を、読み直してみたいと思います。神様は、新しいことを行われたと、御言葉は告げ知らせます。それは、律法を守ることによってではなく、イエス・キリストを信じる信仰によって、神の義が私たちに与えられるということです。

ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。(3:21)

 救いが与えられるとは語られていません。《神の義》が与えられると言われています。神の義が与えられるとは、神様の正しさが、私たちの人生に全うされることです。それこそが救いなのです。ともすると、私たちは、自分の都合のいいように救いを理解しようとします。苦難や重荷や、病気がなくなる、といったようにです。しかし、イエス様を信じても、苦しみはなくならないし、病気は治らないし、困難な状況はまったく変わらないし、すこし救われていないような気がすることがあります。聖書は、そんな楽観的な救いを約束してはいないのです。

ロマ書(146)それはサタンではなく、神の恵みである

このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。(3:26)
 使徒パウロが、自分自身の経験を語っています。

わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。(『コリントの信徒への手紙二』第12章7~8節)

 《とげ》というのですから、鋭い痛みがあったのでしょう。使徒は、これを《サタンから送られた使いです》とも言います。この病気で、使徒はたびたび主のために働くことを妨げられたに違いありません。《三度主に願いました》とは、三度きりという意味ではありません。それほど真剣に、そして深刻に、この病気と繰り返し戦ってきたのです。しかし、願いは聞き入れられませんでした。そのかわり、サタンの仕業と信じていた肉体の棘は、実は神の恵みであるという答えが返ってきたのです。

すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。

 人生には、蒔かないのに生えてくるもの、呼んでいないのに訪れてくるもの、願わないのに与えられるものがあります。そのとき、私たちは、人生を回復させようと、全力でそれと戦い、抜き取ろうとし、追い出そうとするに違いありません。しかし、それだけが人生の唯一の生き方ではありません。もしかしたら、それは敵ではなく、友かもしれない。災いではなく、神の恵みかもしれない。敵だ、災いだと思っているものが、人生の破壊者ではなく、新しい人生を与えてくれるものかもしれないのです。

ロマ書(145) 早計に、それは悪だと言ってはならない

このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。(3:26)
 アントニー・デ・メロの「タンポポを愛する話」から、私は、イエス様の「毒麦のたとえ」を思い起こしました。ある主人が、畑に麦の種を蒔きます。麦が成長して、麦のなかに毒麦が混じって育っていることに気づきました。主人は、「敵の仕業だ」と言います。悪しき者がやってきて、夜のうちに、良い麦のなかに毒麦を蒔いていったのです。

 僕たちはそれを抜こうとしました。すると主人は、意外にも、それを押しとどめてこう言うのです。「刈り入れまで、抜かないでおきなさい。間違って、良い麦を抜いてしまうといけないから」毒麦を抜かないで放置しておくのは、解せない話です。しかし、毒麦と良い麦の判別は、思ったほど簡単なものではなく、刈り入れの日を迎えるまではわからないものだ、というのです。(『マタイによる福音書』第13章24~30節)。

 私たちの人生で、良い麦だと信じていたものが、実は毒麦であり、毒麦だと思い込んでいたものが、結果的には良い実りをもたらすことがあります。モンテーニュ(1533-1592)の『エセー』のなかにも、「帝王たちの行為は、その死後に検討されねばならぬ」という言葉があります(『エセー(1)』、岩波文庫、26頁)。良い帝王は、将来のことまで考えて政治を行うものです。今は悪政と思われていても、将来、その正しさが明らかにされることがあるというのです。私たちが、日常的に遣う言葉でいえば、「何が幸いするか、わからない」ということです。

 ですから、今起こっていることだけをみて、軽々に、毒麦と判断してはならない、刈り入れの時にそれが明らかにされるまで、様子をみなさいと、イエス様はおっしゃるのです。

ロマ書(144)たんぽぽを愛しなさい

このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。(3:26)
 アントニー・デ・メロ(1931-1987)というイエズス会修道士の『小鳥の歌』という本に書かれていたお話です。

 庭の芝生を、とても大切にしている人がいました。芝生には、雑草が生えてきます。彼は、庭の美しい芝生を台無しにしてしまうタンポポと全力で格闘していました。抜いても、抜いても、タンポポに、彼は疲れ果てノイローゼになりそうでした。

 彼は、農林省に手紙を書きました。タンポポを抜くのにどんなにたいへんな思いをしているか。あらゆる方法を試してきたが、タンポポを完全に追い出すことができないでいることを書いて、「わたしは、どうしたらいいのでしょうか」と、質問をしたのです。ほどなく返事が届きました。こう書いてありました。「たんぽぽを愛そうとしたらどうですか」

 これまで、タンポポこそ諸悪の根源だと信じ込んできた彼が、タンポポを愛そうとすることは、生やさしいことではありませんでした。しかし、彼は、努力しました。まず、タンポポたちと毎日話をすることから始めました。抜かれる心配のなくなったタンポポは、彼の大切な芝生に、我が物顔ではびこりました。そんなタンポポに、ときどきイライラさせられながらも、彼は努力し、心を込め、友情を込めて話しかけるよう心掛けました。

 やがて、タンポポが、彼に微笑み返してくれるようになりました。次第にタンポポと会話をすることが楽しくなりました。彼とタンポポは、良き友人となりました。もちろん、庭の芝生は荒らされました。しかし、彼の悩みは消えました。タンポポの咲き誇る庭を、彼は楽しむようになったのです。 

ロマ書(143)まず神の義が証明されなければならない

このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。(3:26)
 神様がお造りになったこの世界は、《極めて良かった》と御言葉は語ります。つまり、神様の御業は完璧でした。それが神の義です。神の神たる御業が全うされるとき、すべてのもが、美しく、良きものとなるのです。わたしたち人間も、動物も、自然も、すべてが完璧になるのです。

 しかし、人間は罪を犯し、神の義を曲げてしまいます。神様が《極めて良かった》と言われる世界が、矛盾に満ちた、混沌した、解決のない世界になってしまったのです。これは、神様がお造りになった本来の姿ではありません。この世界も、私たち人間も、神様のお造りになったままの姿ではないのです。神の義が貫かれるということは、この世界が、もう一度正しい世界に回復されるということです。人間に理想社会は築けませんが、神様にはそれができるのです。

 だから、聖書は、絶望せず、自暴自棄にならず、主の日を待ち望んで、善き業に励みつづけ、耐え忍びなさいと、繰り返し、私たちに勧告しています。ひとつだけ、この『ローマの信徒への手紙』からご紹介しますと、12章11節、

希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。

 人間の努力では、理想社会はできない。けれども、失望するのではなく、神様が、それを実現しようとしてくださっていることを信じ、喜び、その神様の御業に参与する心をもって、今の時代に耐え忍びながら、善き業に励みなさいというのです。
日本基督教団 荒川教会

牧師 国府田祐人

Author:牧師 国府田祐人

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