ロマ書(190)小鳥に説教する聖フランシスコ②

では、この幸いは、割礼を受けた者だけに与えられるのですか。それとも、割礼のない者にも及びますか。わたしたちは言います。「アブラハムの信仰が義と認められた」のです。(4:9)

 小鳥たちは、聖フランシスコが語りかけているあいだ静かに聞き入っていて、語り終えると、いっせいに飛び立っていったと言われています。信じがたい話で、子供に聞かせる童話のようにも思われますが、聖フランシスコという人は、まさにこの小鳥たちへの説教のように、神さまに感謝をし、讃美をささげて生きた人だったようです。小鳥たちは、生まれたままの姿で生きています。それ以上、何も得ることがなくても、生きて今あること自体が、神の恩寵に満ち溢れたことである。それが聖フランシスコの信仰であり、生き方です。

 聖フランシスコの話をしたのは、「幸せ」について考えてみたいからです。今日お読みしました『ローマの信徒への手紙』第4章9節に、《この幸いは、割礼を受けた者だけに与えられるのですか。》と書かれています。割礼の話は後でいたしますが、ここで問われているのは、「幸せは、いったいどのような者に与えられるのか」ということです。もし、生まれたままの姿で、それ以上何を得ることがなくても、感謝しきれないほどの神の恩寵に溢れていているならば、どんな人も、みんな幸せであるといってもいいでありましょう。

 しかし、実際には、多くの人たちが自分の不幸を嘆き、人の幸せをうらやんで生きています。それはどうしてなのでしょうか。聖フランシスコの説教は間違っていたのか。小鳥たちが行儀よく説教を聞いているということもお伽噺のようですが、語られている説教そのものがお伽噺であったということなのでしょうか。私は、やはり、人は生まれたままの姿で、それ以上何を得なくても、神様の恩寵を十分にいただいているのだと思う。それが、聖書の教えるところであり、事実なのだと思うのです。しかし、それを幸福と感じることなく、生きている人が多いのではないでしょうか。

ロマ書(189)小鳥に説教する聖フランシスコ①

では、この幸いは、割礼を受けた者だけに与えられるのですか。それとも、割礼のない者にも及びますか。わたしたちは言います。「アブラハムの信仰が義と認められた」のです。(4:9)

 アッシジの聖フランシスコ(1182~1226)が、小鳥たちにした説教が遺されています。

 「兄弟なる小鳥たちよ。あなたがたを造ってくださった神さまのご御を深く感じていなければなりませんぞ。そして、いつでも、どこにいても、神さまをほめたたえなくてはなりませんぞ。神さまは、あなたがたに、あらゆるところへ飛んで行ける自由をお与えくださったのだし、また、そんなふうに二枚も三枚もの着物をさずけてくださっている。そしてまた、あなたがたの一族が地上から消えてなくならぬようにと、ノアの箱舟にのせて、血筋がたえぬようにしてくださった。さらにまた、空気というものを作ってくださったのもあなたがたのためなのだから、このこともご恩に感じなければなりませんぞ。そればかりではありません。あなたがたは、種まくこともせず、刈り入れをすることもしないのに、神さまはあなたがたをも、あなたがたの子どもたちをも養っていてくださる。飲むための花の蜜や泉の水も与えてくださっている。隠れ場となる山や谷を、巣を作るための大木を、与えてくださっている。また、あなたがたは、紡ぎもせず、織りもしないのに、神さまは、あなたがたと、あなたがたの子どもにちゃんと着るものを与えてくださっているではないか。こんなにも多くの恵みをさずけてくださっているのだから、あなたがたを造ってくださった神さまは、どんなにあなたがたを愛してくださっているか。おわかりだろう。だから、兄弟たちよ、これほどのご恩を忘れる罪におちいらぬようにしなさい。そして、神さまをほめたたえることに熱心でありなさい。」(『聖フランチェスコの小さい花』、田辺 保訳、教文館)


ロマ書(188)幸せなクリスチャンであれ

同じようにダビデも、行いによらずに神から義と認められた人の幸いを、次のようにたたえています。「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、幸いである。主から罪があると見なされない人は、幸いである。」(4:6-8)

 ダビデの信仰も、アブラハムとまったく同じであったと語られています。行いによってではなく、罪をゆるし、不信心な者の信仰を、信仰と呼んで下さる神様によって、ダビデは神様に愛されたのだというのです。

 私たちもそうです。私たちは、まだイエス様を知らない時から、まだ信仰が定まらないときから、神様に愛され、招かれ、そして神の子とされたのです。そのことを知ることが、私たちの喜びであり、感謝の根源です。それは、ただの喜び、感謝ではありません。大いなる喜びであり、大いなる感謝です。
 6~8節で、注目していただきたいのは、《幸い》という言葉です。クリスチャンは幸せでなくてはなりません。苦しい時、悲しい時、いろいろあるのが人生ですが、どんな時にも、神様に罪ゆるされ、神様の愛と恵みを受けることがゆるされているのです。これ以上の幸いがありましょうか。その喜びを感謝をもって、神様を讃美し、神様と共に歩む生活が始まる。それが信仰生活なのです。幸せなクリスチャンになりましょう。

ロマ書(187)不信心な者を義とする御方

ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。(4:4-5)

 ある父親が、「おできになるなら、息子を癒やし、私たちを憐れんでください」と、イエス様に嘆願をしました。イエス様は、この父親に、《「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」》とお応えになります。

 父親は、慌てて言い直し、叫んでこう言いました。

「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」

 《信じます。信仰のないわたしを》という言葉を叫ぶ父親、ここに《不信心な者を義とされる方》をすがるように信じる信仰があります。自分自身のうちに何もないにも関わらず、なお神様を必要とし、神様の救いを叫ぶ信仰です。このような信仰とも言えない信仰を、神様は信仰と呼び、そのゆえに義としくださるのです。だから、この神様の大きな無限の愛を信じなさいということなのです。 

 アブラハムは、私たちの信仰の父として、尊敬すべき人です。主の御言葉に従って、ふるさとを離れ、旅立った姿は、私たちを奮い立たせます。イサクを焼き尽くす献げ物として捧げようとするアブラハムの信仰には、決して真似できないような信仰の高みをみます。そのアブラハムにも、信仰が崩れ落ちそうなときがあり、そのなかで縋るように神様に祈ったときがあったのです。そして、自分から神様に捧げるような信仰のなにもないときに、なお神様の憐れみを求めて祈る信仰、これこそ神様がアブラハムを義と認められた信仰であるということを、よくよく心に留めたいと思います。

ロマ書(186)恵みを信じる信仰

ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。(4:4-5)

第4章は、アブラハムのことが語られています。アブラハムは、この時、神様が信じられなくなっていました。ずっと神様を信じて従ってきたのに、神様はすこしも約束を果たしてくださらないように思えるからです。ついにアラブハムは、神様に訴えます。

わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。(創世記15:2)

 すると、神様はアブラハムを天幕の外に連れ出して、満天の星空を仰がせました。そして、アブラハムに、もう一度約束を与えてくださるのです。

主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」

 このすぐ後に、《アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。》と書いてあります。このときのアブラハムの信仰とは、どんな信仰でしょうか。ハランを旅立ったときの意気揚々とした信仰ではないことは確かです。神様に従ってきたことにどんな意味があるのか。ほんとうに自分は神様の声を聞いたのだろうか。神様は、約束を忘れてしまったのだろうか。そんなことを考え、信仰の熱心も、確信も、喜びも、希望も、何もなかったのです。しかし、そのような時に、なお「わたしを信じなさい」と神様は言われました。信仰の熱心や、確信や、喜びや、希望も、何もないときに、ただ神様の言葉だけを信じたのです。信じたというよりも、すがったと言った方がいいかもしれません。アブラハムは、《不信心な者を義とされる方》をすがるように信じたのです。

日本基督教団 荒川教会

牧師 国府田祐人

Author:牧師 国府田祐人

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