ロマ書(152) 自己実現の方便としての宗教

では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。(3:27)
 世界的救済などといいながら、個人の内面的幸福感という矮小化された救いを求めているのは、テロリスト集団イスラム国と同じです。彼らは自分たちの世界を実現するために、自分と違う人々を悪とみなし、平気で殺してしまうのです。日本からイスラム国に入ろうとした若者もいました。彼はイスラム教徒ではなく、特別な思想信条があるのでもありませんでした。ただ、この日本に、自分の居場所がない。生きづらい。それだけの理由だったのに驚きましたが、それはオウム真理教のときも同じだったと思います。自分ひとりの幸せ、救いだけを追い求めている。その結果、救いといっても、社会からかけ離れたところで、自分一人の満足を楽しむことに過ぎなくなっているのです。別の言い方をすれば、信仰とか、神様も、自己保全や自己実現のための方便になってしまっています。

 イエス様は、こう言われました。

わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。

 信仰は、自己実現の方便ではありません。むしろ、それを捨てて、イエス様を中心に生きる。自分を主語にして、「わたしが、わたしが」という人生ではなく、イエス様を主語にして生きる。そうすれば、イエス様が、わたしのなかに生きてくださる。そこに、罪に囚われた自分からの解放があり、神の子として生きる救いがあるのです。これが信仰です。

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日本基督教団 荒川教会

牧師 国府田祐人

Author:牧師 国府田祐人

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