ロマ書(146)それはサタンではなく、神の恵みである
このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。(3:26)
使徒パウロが、自分自身の経験を語っています。
わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。(『コリントの信徒への手紙二』第12章7~8節)
《とげ》というのですから、鋭い痛みがあったのでしょう。使徒は、これを《サタンから送られた使いです》とも言います。この病気で、使徒はたびたび主のために働くことを妨げられたに違いありません。《三度主に願いました》とは、三度きりという意味ではありません。それほど真剣に、そして深刻に、この病気と繰り返し戦ってきたのです。しかし、願いは聞き入れられませんでした。そのかわり、サタンの仕業と信じていた肉体の棘は、実は神の恵みであるという答えが返ってきたのです。
すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。
人生には、蒔かないのに生えてくるもの、呼んでいないのに訪れてくるもの、願わないのに与えられるものがあります。そのとき、私たちは、人生を回復させようと、全力でそれと戦い、抜き取ろうとし、追い出そうとするに違いありません。しかし、それだけが人生の唯一の生き方ではありません。もしかしたら、それは敵ではなく、友かもしれない。災いではなく、神の恵みかもしれない。敵だ、災いだと思っているものが、人生の破壊者ではなく、新しい人生を与えてくれるものかもしれないのです。
使徒パウロが、自分自身の経験を語っています。
わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。(『コリントの信徒への手紙二』第12章7~8節)
《とげ》というのですから、鋭い痛みがあったのでしょう。使徒は、これを《サタンから送られた使いです》とも言います。この病気で、使徒はたびたび主のために働くことを妨げられたに違いありません。《三度主に願いました》とは、三度きりという意味ではありません。それほど真剣に、そして深刻に、この病気と繰り返し戦ってきたのです。しかし、願いは聞き入れられませんでした。そのかわり、サタンの仕業と信じていた肉体の棘は、実は神の恵みであるという答えが返ってきたのです。
すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。
人生には、蒔かないのに生えてくるもの、呼んでいないのに訪れてくるもの、願わないのに与えられるものがあります。そのとき、私たちは、人生を回復させようと、全力でそれと戦い、抜き取ろうとし、追い出そうとするに違いありません。しかし、それだけが人生の唯一の生き方ではありません。もしかしたら、それは敵ではなく、友かもしれない。災いではなく、神の恵みかもしれない。敵だ、災いだと思っているものが、人生の破壊者ではなく、新しい人生を与えてくれるものかもしれないのです。