ロマ書(113)忘れた罪、自覚できない罪がある

ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。(3:21)
 宗教改革を起こす前のルターは、カトリック教会の聖アウグスチノ修道会の修道士でした。彼は、罪がない人間になるために、あらゆる罪に注意深くあろうとしました。それでも犯してしまう罪に対して、カトリック教会には告解という礼典があります。司祭の前で罪を告白すると、それがゆるされるという礼典です。ルターは、自分の罪の一切を網羅して懺悔しなければならないと考え、一日に何度も、また時には六時間もかけて懺悔をしました。

 それでも、ルターの心は安まりません。ルターは、告解の礼典には、ふたつの欠点があることに気づきます。一つは、記憶力の問題です。過ちを犯し、その瞬間、罪を知り、あとで告解しようとしても、すっかりそのことを忘れてしまうことがあります。六時間も告解し、その帰り道に、突然、懺悔し忘れた罪を思い出して、ドキッとさせられることもしばしばでした。

 もう一つは、認識力の問題です。ダビデは、ナタンに姦淫の罪を指摘されるまで、まったく自分の罪に気づきませんでした。ルターは、自分も、すべてを懺悔したつもりでも、まだ認識していない罪があるのではないかと悩み、恐れ、苦しむのです。

 これほど、罪を恐れ、罪のない人間になろうとして全身全霊を注いだ結果、ルターは、あることを悟ります。自分の犯した罪をあれやこれや懺悔するよりも大事なことは、自分そのものが神のゆるしを受けることだ、ということです。律法によっては、罪のない人間になることができない、罪の自覚が生じるだけである、とはそういうことなのです。しかし、聖書は、律法を守ることによってではなく、別の方法で、《神の義が示された》と語ります。神様との正しい関係に入り、神様の御許で、その愛と恵みを、あますことなく享受する新しい道が示されたのです。

コメントの投稿

非公開コメント

日本基督教団 荒川教会

牧師 国府田祐人

Author:牧師 国府田祐人

リンク
最新記事
カテゴリ
最新コメント
カレンダー
07 | 2017/08 | 09
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -
FC2カウンター
QRコード
QR
グーバーウォーク
検索フォーム