恵みに答える信仰生活

イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。
『ヨハネによる福音書』第21章15節

ペトロは背ける弟子です。一度ならず二度三度と「イエス様など知らない。わたしとあの人は関係ない」と強く言い放った弟子です。ペトロは、もはや弟子を名乗る資格を失った者だと言えましょう。そのような者に、イエス様は「わたしを愛するか」と呼びかけてくださいました。「だれよりもわたしを愛するか」と真実の愛を期待してくださいました。私たちも、クリスチャンだと胸を張れないことがたくさんあります。それでも、イエス様はわたしたちの愛を問い、わたしたちがイエス様に対する愛を表すことを求めてくださっているのです。それに応えるのが私たちの信仰者としての人生です。

ロマ書(169)人にはどうにもならないことがある

では、肉によるわたしたちの先祖アブラハムは何を得たと言うべきでしょうか。(4:1)

半年前に、交通事故に遭われた方のお話です。駐車してあった車の脇を、自転車で通り過ぎようとしましたところ、目の前で車のドアが開き、そのまま激突してしまいました。それから半年を経た今も、この方は事故で苦しんでいます。MRIを撮っても、CTを撮っても、何も異常は見られないのですが、体中にさまざまな痛みや不調が出ているのです。脳外科、整形外科はもちろん、歯医者や整骨院など、いくつもの医者を訪ねました。しかし、どこに行っても、「痛み止めを出しておきましょう」ぐらいの答えしか返ってきません。ひどい場合には、「それは事故とは関係ありません」とか、「もう治せません」と引導を渡されてしまう。彼は、いろいろ手を尽くして、ようやくあるお医者さんにたどり着きました。

そのお医者さんは、彼の苦しみ、不安をあますことなく聞いてこう言ったのです。

 「あなたが遭った事故は、たいへんな事故です。事故にあって、あなたのように苦しみを訴える人をこれまでたくさん看てきました。けれども、医者にもわからないのです。こういう場合、医者がしてあげられることは、多くはありません。実は、どんな病気も、治すのは医者ではないのですよ。自分自身のからだが、治すのです。医者は、どうしたらそれを手助けすることができるかを考え、見いだし、処方するだけです。あなたの場合も、自分自身のからだが元に戻ろうとしているのですよ。それが痛みとなっているのです。ですから痛みは、だんだん軽くなってくるはずですが、一週間や一ヶ月ではなく、年単位で考えて下さい」

 彼は、これを聞いて、彼は、はじめて納得のいく説明を聞き、安心しました。体の苦しみが治ったわけではありませんが、心の不安と恐れが消えたからです。

ぶどう園を荒らす小狐

狐たちをつかまえてください
ぶどう畑を荒らす小狐を。
わたしたちのぶどう畑は花盛りですから。
『雅歌』第2章15節

小さな嘘をつく。陰口を言う。不潔な冗談を言う。ちょっとした意地悪をする。小さなズルをする。このような小さな罪は、誰もがしていることで、自分の霊的な問題に深刻な影響を与えていると思わない人がいるかもしれません。しかし、放置されたままの小さな罪たちは、ぶどう畑を荒らす小狐のように、せっかく花を咲かせた心のぶどう畑を傷だらけにし、実を結ぶのを妨げてしまうのです。自分の魂に細心の注意を払い、主がぶどう園から小狐を閉め出してくださるように、日々祈りましょう。

ロマ書(168)信仰によって義を確立する

それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。(3:31)

 自分の信念や努力で生きてきた人は、満足や誇りはもてるかもしれません。けれども、いつも戦い続けてそれを守らなければなりません。このように律法主義者には満足や誇りはあっても、平和がないのです。

 ところが、イエス様は、律法の完成者として与えられたご自分の義を、恵みとして、私たちに与えてくださるというのです。その義は、人間が努力で達し得たものより、はるかに確かな義です。それが、戦いによって勝ち取るのではなく、恵みとして与えられる。それが信仰によって確立される義です。パウロは、イエス様と共に生きることのうちに、この平和を見いだすのです。その証拠に、パウロは、この後、「私たちの本国は天国にあります」と言い切ります。もう天国が約束されているのだ、というのです。

 信仰によって、律法が確立されるという場合の信仰とは、私たちのために律法を全うされたイエス様が、わたしたちのうちに生きてくださると信じ、どこまでもイエス様と共にいようとする信仰のことでなのです。

 《キリストを得、キリストの内にいる者と認められるため》(フィリピ3:8-9)と、パウロはいいました。《キリストを得》とは、イエス様との真の出会いをすることです。《キリストの内にいる》とは、イエス様と深い交わりの中に入れられることです。このようなイエス様との出会い、交わりを求めるのが、信仰です。信仰は言葉ではありません。当然それにふさわしい行いが伴います。律法の文字をなぞるだけの行いではなく、イエス様との交わりを得るための行いです。

 イエス様との交わりを深め、真実なものにしようとするならば、わたしたちは律法の完成者であるイエス様のいのちに生かされる者になるのです。それが、信仰によって、律法が確立するということではありませんでしょうか。

友なるイエス様

わたしはあなたがたを友と呼ぶ。
『ヨハネによる福音書』第15章15節

おしゃべりをしたり、食事をしたり、一緒に旅行したりす、友と過ごす時間はあっという間に過ぎていきます。それだけではありません。そのような時間を共に過ごすことによって、友情を育み、信頼を築き合っていくのです。箴言には、「どのようなときにも、友を愛すれば、苦難のときの兄弟が生まれる。」(17:17)と語られています。友情を大切にしていれば、友は苦難のときに大きな力と慰めを与えてくれます。イエス様は私たちの友です。苦しいときだけのお付き合いではなく、日頃からイエス様を愛し、祈り、信頼を築くお交わりをしていれば、苦難の時にも、イエス様の揺るぎない愛を確信できるに違いありません。

ロマ書(167)律法の義では得られないもの

それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。(3:31)

使徒パウロは、バリバリの律法主義者から、キリストを信じる信仰に生かされる者に身をかえた人です。それによって何が変わったのか。自分の満足や誇りを求めなくなりました。律法を守って生きるということも、どうでもよくなった。それよりも、イエス様を知ることの喜びを求めるようになったというのです。『フィリピの信徒への手紙』第3章5~9節からをお読みします。

わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。

 パウロは、自分の体に鞭叩いて、律法に従わせることができた人です。それを、自分の誇りとし、満足としてきた人です。しかし、イエス様を知る喜びは、それとは比べものにならないものであると言うのです。なぜなら、律法の義では得られなかったものが、イエス様を知ることによって得られたからです。それは何でしょうか。ひとことで言えば、心の平和ではないでしょうか。

三位一体の神

主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。
『コリントの信徒への手紙2』第13章13節

天の父なる神様の愛だけを知ってもいても駄目です。わたしたちに内在する罪をご自身の血で清めてくださるイエス様の贖いの恵みを知らなければ、天の父の愛を確信することができないからです。天の父の愛とイエス様の贖いを知っているだけでも駄目です。聖霊様との交わりによって、はじめてそれが私たちの霊的な出来事となるからです。天の父なる神の愛、十字架のイエス様の贖い、慰め主なる聖霊との交わり、この三つによって生かされる者となること、それがクリスチャンとなることです。

ロマ書(166)言葉ではなく御心に従う

それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。(3:31)

 イエス様が、バプテスマのヨハネから洗礼を受けようとしたとき、ヨハネはためらいました。イエス様は洗礼を受ける必要があるのか。その靴の紐を解く値打ちもないような私が、イエス様に洗礼を授けていいのか。

 躊躇するヨハネの思いを感じ取られたイエス様は、《正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです》と言われました。つまり、正しいこととは、自分がどう思うかではなく、神様がこれを望んでおられることに従うことではないか、われわれの正しさとはただそこのみにあるのではないか、といわれたのです。

 この出来事が象徴しているように、イエス様の全ご生涯は、徹底的に、神様に従うものでした。『フィリピの信徒への手紙』には、こう語られています。

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。(『フィリピの信徒への手紙』第2章6~8節)

 イエス様は、神様が完全に満足されるまで、神様に従順であることに徹せられたのです。それは、文字として命じられている律法を守ること以上のことです。律法は神様から出たものですから、当然、神様の御心を表していることでしょう。しかし、すべてが文字に言い尽くされているのではありません。文字の背後にある神様の御心を知り、それを満足させるような生き方をするということなのです。

天国は愛で満ちている

友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
『ヨハネによる福音書』第15章13節

こんな話があります。ある人が地獄と天国の様子を見せられました。地獄の人々はたいへん痩せ衰えていました。鍋にはたくさんご馳走があるのですが、スプーンの柄が長すぎて、自分の口に運べないのです。ああ、この長いスプーンこそ地獄で与えられる罰だ、目の前のご馳走を食べられないなんて残酷な罰だと思いました。次に、天国をみたら、なんと天国の人々も、地獄とまったく同じご馳走の鍋と長いスプーンなのでした。ところが、天国の人々は、それを自分の口に運ばず、向こう側にいる兄弟姉妹に食べさせています。誰もがそうしているものですから、みんな美味しそうに鍋の食事をいただいているのでした。

日本基督教団 荒川教会

牧師 国府田祐人

Author:牧師 国府田祐人

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