ロマ書(165)イエス様が律法を確立する

それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。(3:31)

 信仰は、律法を無にするのではなく確立するものです。イエス様ご自身も、こう言われました。

わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。

 信仰が律法を確立するとは、どういうことでしょうか。信仰をもてば律法を守れるようになるのでしょうか。そうだとしたら、私たちは自分が信仰者だという自信がもてません。信仰者であるにも関わらず、しばしば神様に従えない事実があるからです。そして、こう考えるのです。自分には、信仰が足りないのだ。信仰をもてば、きちんと神様に従うことができるはずだ。もっともっと神様に喜ばれる人間となれるように努力をしなけば、と。ところが、そうするとこんどは、偽善者になってしまう。信仰がないのに、行いや言葉で、信仰の足りないところをあるように見せかけようとしてしまいます。神様に従えないのは、信仰がないからです。しかし、人間的な努力によって、神様に従おうとすれば、律法主義者になってしまうのです。

 どうすればいいのでしょうか。信仰のみだと言って、律法すなわち神様が求め給うことを無視すれば、行いのない死んだ信仰となってしまい、信仰もないのに行いや言葉を追い求めれば、律法主義者になってしまう。信仰によって律法を確立するとは、いったいどういうことなのでしょうか。
 そこで、まずイエス様の御言葉に注目したいと思います。イエス様は、「わたしが来たのは、律法を完成させるためである」と言われました。イエス様が、律法を完成させるのです。

謙遜の道を歩む

破滅に先立つのは心の驕り。名誉に先立つのは謙遜。
『箴言』第18章12節

感謝の言葉を受けると花園にいるような思いがするが、不平不満を聞くと有毒ガスにあてられたような気がすると言った人がいます。言い得て妙とはこのことでしょう。自分が不平不満の有毒ガスにあてられるときもあれば、自分から有毒ガスが出ているときもあります。自分が被害者だと思うから不平不満を出てくるのですが、有毒ガスの発することによって自分も加害者になっているのです。自省してみると、不平不満が多いときは、自分が傲慢になっている時です。心のなかで他者を見下している時です。誰にでもそんな時がありますが、イエス様を思い起こし、自分を省みて、謙遜の道を歩む者になりたいものです。

ロマ書(164)律法と信仰は表裏一体

それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。(3:31)

 信仰があるから、律法は必要ないということはありません。私たちは、しばしばこう考える。律法は守れない。しかし、信仰があるから大丈夫だ、と。そうではありません。《信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。》と、聖書は告げています。律法と信仰は、ちょうど「表と裏」、つまり行いと心の関係にあるといえます。信仰があれば、当然、神様を敬います。それは、神様に聞き、神様に従うという行いによって現れます。これが律法の求めるところを満たすということです。上記の御言葉で言えば、《律法を確立する》ということです。

 『ヤコブの手紙』第2章14~17節には、こう語られています。

 わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。

 行いが伴わない信仰は、死んだものであると言われています。神様に従えなくても、信仰があるから大丈夫などと安心していてはいけないのです。神様に従わない信仰はありません。信仰があれば、神様に従うのです。信仰と律法は、表裏一体をなすのです。

大丈夫

 イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」
『マタイによる福音書』第14章27節

子どもの頃、毎日、いろいろな恐れがありました。母は、わたしのいろいろな心配に、いつも「大丈夫だよ」と笑って励ましてくれました。母を見ながら、大人になれば何も怖くなくなるのかと思っていましたが、そうではありませんでした。相変わらず人生は恐れや不安に満ちています。頼りに思えた親も、実際は怖れや不安と戦いながら生きていたのだともわかりました。それでも子どもに安心を与えることができたのは、信じさせてくれる愛があったからです。いまはイエス様が、大きな愛をもって、私に「大丈夫だよ」と語りかけてくれます。

ロマ書(163)神は心をみる(つづき)

それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。(3:31)

 サムエルが、主が選ばれる人に油を注ごうとして、エッセイの家にいきました。エッサイの長男エリアブを見たとき、サムエルはすぐに「この人だ」と直感します。しかし、神様は、サムエルに「違う」と言われました。『サムエル記上』第16章7節

しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」

 《人は目に映ることを見るが、主は心によって見る》、この御言葉を知っていたら、神様をごまかすことができないことは、すぐにわかりそうです。どんなに行いや言葉の立派さであっても、それが人々に評価されていても、神様は、それが信仰から来たものか、人間的な見栄から出たものか、かならず見分けられるのです。

 イエス様は、当時の律法学者やファリサイ派の人たちをご覧になって、白く塗られた墓だ、と評されました。白く塗られた墓は、表側が綺麗ですが、その内側には死んだ心、汚れた心が満ちている。イエス様は、それをご覧になったのでした。

隠れている神の国

神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。
『ルカによる福音書』第17章20-21節

この世に理想の国はありません。その世界のなかで神の国を待望するのがわたしたちの信仰であり、希望でありましょう。その際、イエス様は、神の国は「来る」のではなく、あなたがたの間に「在る」と教えられました。神の国は、隠れて「在る」のです。その隠されている神の国を霊の目をもって見る。そして、それが必ず現れ、過ぎゆくものを圧倒することを待望する。これがわたしたちの信仰であり、希望です。ある人が言いました。理想の世はどこにもないが、信仰があればどこでもパラダイスであると。そう言えるようになりたいものです。

ロマ書(162)神は心を見る

それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。(3:31)

 土居健郎氏は、日本人の贈り物の仕方について語ります。

 日本人は他人に贈り物をする際、それをまず綺麗な紙で包み、更にその上を風呂敷で包んで持参するのを常としたと思われる。もっとも、贈り物を包むことだけなら必ずしも日本人だけとは限るまいが、これを実際に相手に渡す時に口にする挨拶はかなり日本人に独特であったと思われる。というのは、渡す側は「これはほんとうにおしるしです」とか「つまらぬものですが」と云い、中に何が入っているかは明かされなかった。受け取る側も「そんなお心遣いして頂いて」とか何とか礼は云うが、中に何が入っているかは決してその場で聞こうとせず、まして客がいる前で包みを開けたりはしなかった。(中略)なぜなら物を贈るのは心を贈るのであって、物は心のしるしに過ぎない。だから心が肉体に包まれて外からは見えないように贈り物も念入りに包まれねばならぬ。またそうであればこそ受け取った贈り物をすぐその場であけて中を見るのは心なき業ということになる。そうすることにはあたかも相手の心のしるしとして贈り物を受け取るのではなく、ただ中の物だけが目当てであるごとき印象を与えかねないからである。(土居健郎、『表と裏』、弘文堂)

 贈り物の価値は、物にあるのではありません。心あればこそ、それが喜ばれるものになるのです。
 愛や信仰は神様への贈り物です。それは、やはりその裏に隠された心によって、真実になったり不真実になったりするのです。神様が求めておられるのは、立派な行いではなく、まことの心です。教会に行く。聖書を読む。祈る。愛の業に励む。立派な言葉で信仰を証しする。しかし、神様は、その行いの裏をご覧になります。そこにまことの心があるかどうかをご覧になるのです。

ほんとうの神様


あなたはいかなる像も造ってはならない。・・・あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。
『出エジプト記』第20章4-5節

どんな人も神様を思ったり、神様について考えたりすることができます。しかし、神様をつくることはだれにもできません。神様の栄光の一端に触れて、神様がわかったと思うこともありましょう。神様と出会ったという感覚をもつこともありましょう。しかし、「これが神様だ」と断言してしまった途端、限りない神様の栄光を人間の思想や経験の限界のなかに閉じ込めてしまうことになります。そこに偶像が生まれます。わたしたちは人間の限界のなかでしか神様を思うことができません。だからこそ、ほんとうの神様は人間の思いを超えたお方であることを認め、求道の心を忘れてはならないのです。

日本基督教団 荒川教会

牧師 国府田祐人

Author:牧師 国府田祐人

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