ロマ書(161)すべてのひとの神

それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。(3:29-30)

  唯一の神への信仰は、すべての人が認め、すべての人が尊び、すべての人が、そこから愛を汲み取ることができる神様を信じる信仰です。だからこそ、イエス様は「すべて造られた者に宣べ伝よ」と言われ、「すべての国民をわたしの弟子にしなさい」と言われました。そのために、「地の果てまで、あなたがたを遣わす」と言われました。
 
あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。(『使徒言行録』第1章8節)

 《地の果て》とは、どこでしょうか。単純に「世界中」という意味にとることができます。しかし、空間だけではなく、時間的な果ても考慮しなくてはいけません。世界中に、そして終わりの日まで、あなたはイエス様の証し人として生きよ、という事です。

 はっきりさせなくてはならないのは、この「果て」は自分が区切るのではない、という点です。自分は、これでおしまいだ、ここまでだ、これ以上は無理だ、あの人だけは例外だ、と自分で自分の限界を作ってはいけないのです。自分の殻を越えて、私たちは神様によって、神様の僕として生かされるのです。

 神様は、ユダヤ人だけの神様ではない。サマリア人の神様でもあり、異邦人の神様でもある。私の神様であるだけではない、あの人の神様でもあり、この人の神様でもある。そのように、自分が定めた境界線を越えて行くことが、《地の果て》に向かうことです。唯一の神様を信じるとは、むしろ排他的な自分を乗り越えていく力、たとえば敵をも愛する力となっていくのです。

信仰の冒険

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
『マタイによる福音書』第6章33節

「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」(ルカ10:41)と、イエス様はマルタにおっしゃいました。あれこれと心をもちい悩み疲れている自分に言われていることのように感じる人は少なくないでしょう。イエス様は、あれこれと悩むのではなく、一切を来るべき神の国への祈りに集中させ、そのためにすべてを捧げよと教えられます。他の一切はどうでもいいことだ、といわれるのではありません。これを徹底すれば、他の一切は神の国の恵みとして、あなたに与えられると断言されるのです。そうなるかならぬか、信じて任せる以外に道はありません。信仰生活とは、イエス様を信じる冒険の人生です。

ロマ書(159)唯一の救い主

それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。(3:29-30)

 唯一神を信じる信仰は、排他的かもしれません。それは、認めなくてはなりません。しかし、排他的であるとことは、必ず「悪」だと言い切れるのでしょうか。愛の関係は、男女の愛であれ、親子の愛であれ、かならず排他的になります。そうでなければ、愛といえるかどうか怪しいと思います。

 だからといって、自分の子どもを愛する親が、他の子どもや不親切であるかといえば、そんなことはありません。子どもをもつ親であればこそ、ほかの子どもたちに対しても慈しみを持つのです。愛の心は、普遍的なものだからです。これしか愛さない。ほかのものはすべて憎む。こういう普遍性のない愛は、ほんとうの愛ではありません。

 正義も同じです。自分の正義を振りかざし、他者を認めないのは排他的です。しかし、何でも相対化して認めることがいいことでしょうか。そんなことをしたら、殺人も、強盗も、何でもそれぞれの正義としてゆるされることになります。正義が相対化されれば、みんなが自分のやりたいことをやる無秩序で、混乱した世の中になってしまうのです。

 排他的といえば、聞こえが悪いかもしれませんが、正義にも普遍的なものがあるのです。すべての人に受け入れられるべきもの、すべての人が尊ぶべきもの、そういう正義があるのです。

 神様は唯一である。これは、他に神はいないという意味では、排他的です。しかし、独善ではありません。自分だけが救われると思っているのではないのです。すべての人が、この神様によって救われるのです。

信仰による「今」を生きる

このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。
『ローマの信徒への手紙』第5章2節

信仰は、イエス様の十字架の恵み、復活の勝利さらには御教えを想起し、その感謝に立って「今」を生きることです。この信仰に立って生きるとき、わたしたちの「今」は、過去の恩寵を想起するだけではなく、来たるべき日の喜びを望み見る「今」になります。これがキリスト者の生きる「今」なのです。たとえ苦難に満ちた「今」であろうと、すでに与えられた恩寵と来たるべき恩寵が出会う「今」である。だから、悩み、苦難の尽きざる「今」であろうとも、主のお陰なる感謝と栄光に与る希望を忘れずに生きようはありませんか。

ロマ書(158)新約聖書の一神教

それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。(3:29-30)

 新約聖書でも、偶像を否定することに変わりありません。それと共に、神様は唯一の神様だから、神様が与えてくださる救いの道も、この神様によるほかないのだという視点がはっきりとしてきます。その唯一の救いの道こそ、イエス様を信じる道であるというのです。

 『ヨハネによる福音書』第14章6節で、イエス様はこう言われています。

わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。

 また、『使徒言行録』第4章12節には、ペトロの口によって、こう語られています。

ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。

 神様が与えてくださった救いの道は、イエス様によって救われるほかないのだ、といわれます。そして、その意味は、ユダヤ人であろうが、異邦人であろうが、どんな人であっても、イエス様を信じれば救われるということだと、『ローマの信徒への手紙』は語るのです。割礼のあるユダヤ人であろうと、割礼のない異邦人だろうと、神様が与えてくださったイエス様を信じることによって救われる。神様は唯一であるとは、救いの道が唯一であるということである、という意味なのです。

神に向かって生きる


 罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。
『ローマの信徒への手紙』第6章2節

世は、「罪を犯してはならない」と言います。神の律法も、「罪を犯してはならない」と語ります。しかし、福音は、「あなたは罪に対して死んだ」と言うのです。イエス様が、私たちのすべての罪をたずさえて、墓にまで降られたからです。私たちは、もはや罪の中に生きることができないのです。しかし、実際は、なお罪の中にいるのではないでしょうか。そうです。罪の中にありながら、しかし罪に向かってではなく、神に向かって生きているのです。それを信じることがゆるされているのです。ここに福音があります。

ロマ書(157)旧約聖書の一神教

それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。(3:29-30)

 一神教とはいかなる信仰か、私たちはきちんと聖書に聞かねばなりません。すると、旧約聖書と新約聖書では、唯一の神様に対する信仰の姿勢が違っていることに気づきます。

 旧約聖書の唯一神への信仰は、偶像礼拝の禁止と結びついています。神様は天地万物の造り主であり、唯一の神様です。ほかに神様はいません。太陽も、石も、動物も、草木も、すべては被造物であって、神様ではありません。偶像とは、人間が造り出した想像上の神様を、神様として信じることです。

 人間が、神様を造り出すとは、金の小牛をつくって、これがあなたがたの神様だというようなことばかりではありません。有限なものに、無限の意味や究極的な価値を与えること、これが偶像礼拝です。生きるために大切なものはひとつとではありません。衣食住も大切です。お金も大切です。健康も大事です。仕事も大切です。家族も大切です。国家も大事です。しかし、そのようなものが、一時的に、価値を持ち、目的となることがあっても、究極的な目的となってはいけないのです。そうなってしまったら、そこからしか物事を考えられなくなる。そういう価値観、世界観に生きるようになる。それは間違った生き方です。虚構のうえに立つ価値観、世界観です。それが偶像礼拝です。

 偶像礼拝は、単に異教徒たちの信仰ではなく、私たちの生き方に関わることです。まことの神様を信じると言いながら、有限なものに、無限の価値を与えるような生き方をすれば、偶像礼拝です。旧約聖書は、そういう偶像礼拝を、かたく禁じます。そして、私たちの造り主であり、私たちの人生の主である、まことの神様を信じて生きることを求めるのです。

思い煩うな

野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。
『マタイによる福音書』第6章28節

私たちの日々のいのちをつくるのは、思い煩いでも、労働でもなく、天の父なる神様です。鳥や、花は、人間のように思い煩うことはありません。日々、神様が与えてくださるものを受け取り、それによって生きているのです。人間が思い煩うのは、神様なしに、自分の知恵と力で生きようとするからです。なぜ、神様に期待しようとしないのでしょうか。神様の愛を知らないからです。神様は、鳥や花ばかりではなく、私たちのいのちに心をかけ、その必要を与えてようととしてくださっています。「神様、今日もよろしくお願いします」と言って、一日を始めようではありませんか。
日本基督教団 荒川教会

牧師 国府田祐人

Author:牧師 国府田祐人

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