主よ、見えるようにしてください

さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。
『ヨハネによる福音書』第9章1節

イエス様がごらんになったら、私たちはみな、《生まれつき目の見えない人》であるかもしれません。私たちの目には、私たちに注がれている天の父の愛も、私たちを取り囲んでいる救い主の恵みも見えないからです。私たちは闇のなかに生まれ、闇のなかに生きています。もし、見えるようになったならば、私たちの世界も、人生も、一変するに違いありません。しかし、私たちが見えないのは、生まれつきです。見えるようになるために、神様の憐れみと奇跡が必要です。

ロマ書(156)一神教は排他的か

それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。(3:29-30)

 わたしたちが信じる神様は唯一の方で、すべての人にとっての創造主、そして救い主です。しかし、近年、イスラム国のテロを例にとり、このような一神教は排他的で暴力的だと非難する人がいます。対して、多神教の日本では、他宗教に対しての寛容性があるというのです。

「私は、かつての文明の方向が多神教から一神教への方向であったように、今後の文明の方向は、一神教から多神教への方向であるべきだと思います。狭い地球のなかで諸民族が共存していくには、一神教より多神教のほうがはるかによいのです。」(梅原猛『森の思想が人類を救う』小学館、1995年、158頁)

 梅原猛氏は、一神教は、排他的で、紛争・戦争や自然破壊の原因となる。一神教的な考えを捨て去り、多神教的な考え方に移行すれば、戦争や自然破壊の問題は解決すると言っています。岸田秀氏も同様の考えです。

「だから、世の中でいちばん迷惑というか害が大きいのは、一神教と一神教との喧嘩 ですね。今のキリスト教国のアメリカとイスラム圏との争いというのは、人類の未来 にとって非常に危惧すべきことではないかと思います。これはやはり一神教の病理で、 はっきり言えば、一神教が人類の諸悪の根元なんで、ユダヤ教もキリスト教もイスラ ム教も、一神教がすべて消滅すればいいんですけれどね(笑い)。」(岸田秀・小滝透『アメリカの正義病、イスラムの原理病―一神教の病理を読み解く』
春秋社、2002年、236頁)

いら立つな

悪事を謀る者のことでいら立つな。
怒りを解き、憤りを捨てよ。
自分も悪事を謀ろうと、いら立ってはならない。 
『詩編』第37編1節、8節

他人にいらいらすることがあります。怒り、嫉妬、不満、失望などが、心のなかで熱せられ、抑えられなくなるのです。たしかに、問題は相手にあるのかもしれません。しかし、過度に熱くなってはいけないと、御言葉は警告します。熱くなれば、信仰者として冷静に振る舞うことができなくなます。神様にではなく、自分の気持ちに従ってしまうという過ちを犯します。そこから良い結果は生まれません。主に信頼し続けることなしに、私たちが善い業を行い続けることはできません。主がすべてを支配して下さるように祈り、待ち望み、信頼するべきなのです。

ロマ書(155)自分を誇れない信仰

なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。(3:28)

 ガリラヤ湖で漁をしていたペトロは、一匹も収穫がないまま港に戻りました。すると、イエス様は、「もう一度、沖に出て漁をしなさい」と、ペトロに言われます。ペトロは、こう答えました。《先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう》(『ルカによる福音書』第5章5節)ペトロと仲間の漁師たちは、ダメ元で、沖に戻り、漁をします。すると、網がやぶれそうなほどの魚が捕れたというのです。

 どうせ、何もとれやしないという自分の確信や感情が、ペトロの心に溢れていました。そのままであったら、ペトロはイエス様のお言葉に従えなかったでありましょう。けれども、心にある自分の確信をなげ捨てて、《しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう》と言って、イエス様のお言葉に従う。これが信仰です。

 ペトロは、自分が御言葉に従ったことを誇りませんでした。むしろ、ペトロは、イエス様の足元にひ伏して《主よ、わたしから離れて下さい。わたしは罪深い者なのです》(同上、5章8節)といいました。まことの信仰は、自分を誇りません。むしろ、神の恵みの大きさに、打ち砕かれるのです。自分を無にして従ったという、自分の行いではなく、イエス様のしてくださったことの偉大さをたたえるのです。

 このような信仰こそ、《信仰の法則》にのっとった信仰です。信仰は、自分を誇ったり、ひとを裁いたりするためのものではなく、イエス様の救いを受け取り、その恵みに生きるためのものなのです。

聖霊を求めよう

自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。
『コリントの信徒への手紙1』第2章14節

人は、神の霊によって新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない、とイエス様は言われます。(ヨハネ3:3,5)と言われました。生まれながらのままでは、人は神の国の偉大さ、すなわち神様の知恵や力を理解できず、愚かだと見下してしまうのがオチだからです。聖霊を求め、聖霊によって新しく生まれ、聖霊の導きに従って歩みましょう。そして、人知をはるかに超えた神の国の偉大さを経験しながら、ダイナミックな信仰生活を送ろうではありませんか。

ロマ書(154)空の器

なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。(3:28)

 福音とは、イエス様がしてくださったこと、してくださることによって、私たちが救われることです。そのイエス様の救いを受け取り、その救いに生きることが信仰です。

 カルヴァンは、「信仰とは空の器である」と申しました。信仰それ自体は、何の価値もない、というのです。その信仰に価値をもたらすのは、イエス様の恵みです。イエス様によって与えられる神の恵みを受け取る器、それが信仰なのです。

 旧約聖書の預言者エリシャの仲間の預言者が死にました。夫が死んで、生活に困ったやもめが、エリシャに助けを求めてきました。エリシャは、「あなたの家には何があるか」と答えると、油が一壺のほか何もないという返事が返ってきます。そこで、エリシャは、隣近所に行って、「空の器をできるだけたくさん借りてきなさい。そして、その空の器に、油を注ぎなさい。」といいます。果たして、やもめがそのようにすると、一壺の油は、用意したすべての空の器をいっぱいに満たしました。やもめは、その油を売って、生活をしました。

 空の器自体は、何の価値もありません。価値があるのは、その中に注がれる油です。その油が、やもめの生活を支えました。信仰も同じです。信仰それ自体には、価値はありません。しかし、そこに注がれる神の恵みが、私たちを生かすのです。まことの信仰は、「信じる」という自分の行いによって生きるのではなく、「神の恵み」によって生きるのです。

ほんとうの必要

神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。
『コリントの信徒への手紙1』第1章30節

 イエス様は「わたしを離れては、あなたがたは何もできない」(ヨハネ15:5)と言われました。これが文字通り事実であることを、私は日々経験しています。他方、上記の御言葉は、イエス様につながることは神の知恵、義しさ、聖さ、贖いの恵みに結ばれることであると告げます。生きるために何か他に必要なものがありましょうか。この中に私たちの必要の一切があります。それに気づくならば、私たちの唯一の必要は、イエス様に結ばれた生活であると断言できることでしょう。

ロマ書(154)空の器

なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。(3:28)
 福音とは、イエス様がしてくださったこと、してくださることによって、私たちが救われることです。そのイエス様の救いを受け取り、その救いに生きることが信仰です。カルヴァンは、「信仰とは空の器である」と申しました。信仰それ自体は、何の価値もない、というのです。その信仰に価値をもたらすのは、イエス様の恵みです。イエス様によって与えられる神の恵みを受け取る器、それが信仰なのです。

 今日は、旧約聖書の預言者エリシャのお話を合わせて、お読みしました。エリシャの仲間の預言者が死にました。夫が死んで、生活に困ったやもめが、エリシャに助けを求めてきました。エリシャは、「あなたの家には何があるか」と答えると、油が一壺のほか何もないという返事が返ってきます。そこで、エリシャは、隣近所に行って、「空の器をできるだけたくさん借りてきなさい。そして、その空の器に、油を注ぎなさい。」といいます。果たして、やもめがそのようにすると、一壺の油は、用意したすべての空の器をいっぱいに満たしました。やもめは、その油を売って、生活をしたという話です。

 空の器自体は、何の価値もありません。価値があるのは、その中に注がれる油です。その油が、やもめの生活を支えました。信仰も同じです。信仰それ自体には、価値はありません。しかし、そこに注がれる神の恵みが、私たちを生かすのです。まことの信仰は、「信じる」という自分の行いによって生きるのではなく、「神の恵み」によって生きるのです。


ロマ書(157)旧約聖書の一神教信仰

それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。(3:29-30)

 一神教とはいかなる信仰か、私たちはきちんと聖書に聞かねばなりません。すると、旧約聖書と新約聖書では、唯一の神様に対する信仰の姿勢が違っていることに気づきます。旧約聖書の唯一神への信仰は、偶像礼拝の禁止と結びついています。神様は天地万物の造り主であり、唯一の神様です。ほかに神様はいません。太陽も、石も、動物も、草木も、すべては被造物であって、神様ではありません。偶像とは、人間が造り出した想像上の神様を、神様として信じることです。

 人間が、神様を造り出すとは、金の小牛をつくって、これがあなたがたの神様だというようなことばかりではありません。有限なものに、無限の意味や究極的な価値を与えること、これが偶像礼拝です。生きるために大切なものはひとつとではありません。衣食住も大切です。お金も大切です。健康も大事です。仕事も大切です。家族も大切です。国家も大事です。しかし、そのようなものが、一時的に、価値を持ち、目的となることがあっても、究極的な目的となってはいけないのです。そうなってしまったら、そこからしか物事を考えられなくなる。そういう価値観、世界観に生きるようになる。それは間違った生き方です。虚構のうえに立つ価値観、世界観です。それが偶像礼拝です。

 偶像礼拝は、単に異教徒たちの信仰ではなく、私たちの生き方に関わることです。まことの神様を信じると言いながら、有限なものに、無限の価値を与えるような生き方をすれば、偶像礼拝です。旧約聖書は、そういう偶像礼拝を、かたく禁じます。そして、私たちの造り主であり、私たちの人生の主である、まことの神様を信じて生きることを求めるのです。

信じてはならない

人が『見よ、メシアは荒れ野にいる』と言っても、行ってはならない。また、『見よ、奥の部屋にいる』と言っても、信じてはならない。
『マタイによる福音書』第24章26節

主は「信じてはならない」と言われました。信仰とは、何でもかんでも信じることではなく、信ずべきものを信じることなのです。そのためには、いろいろなことを疑うことも大切です。自分が「絶対」と思いこんでいることはほんとうに絶対だろうか。「駄目だ」と思っていることはほんとうに駄目なのだろうか。世間では「備えあれば憂いなし」「一番大切なものは健康」とまことしやかに言われているが、それは本当だろうか。「イエス様こそ救い主である」という動かすことができない真理にに矛盾することを安易に信じていないだろうか。ほんとうの信仰は、自分を疑い、世間を疑い、イエス様を信じるのです。
日本基督教団 荒川教会

牧師 国府田祐人

Author:牧師 国府田祐人

リンク
最新記事
カテゴリ
最新コメント
カレンダー
06 | 2017/07 | 08
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31 - - - - -
FC2カウンター
QRコード
QR
グーバーウォーク
検索フォーム