報酬ではなく恵み

五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。
『マタイによる福音書』第20章9-10節

朝からたくさん働いた人も1デナリオン、夕方5時に来て少し働いた人も1デナリオン。正しい報酬とは思えません。この譬話は、「罪の赦し」という神様からの贈り物は、決して報酬ではないことを物語っています。それは報酬以上のものです。正しさ以上のものです。正しさをもってではなく限りない愛をもって、報酬としてではなく溢れる恵みとして、神様はこの贈り物をお与えくださるのです。

ロマ書(148)十字架は神の義を示す

このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。(3:26)
 イエス様は、こう言われました。

 あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。
(『ヨハネによる福音書』第16章33節)

 救いとは、苦難がない人生ではなく、苦難に負けない人生、負けないどころかそれを糧にさえする人生を手に入れることです。それを手に入れるためには、罪人である私たちの罪が赦され、きよめられ、私たちが神様のものとされなければなりません。そして、神様の愛と力で支配された人生を生きる者とされなければなりません。それは、律法を守ることによってではなく、イエス様が成し遂げてくださった贖いの御業によるのです。

人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。(3:23)

 キリスト・イエスによる贖いの業とは、イエス様がご自身を、神様と、人に、完全に捧げられたということです。

神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。(3:25)

 イエス様が、ご自身を《罪を償う供え物》として捧げられたのは、《神の義をお示しになるため》です。神が神とされるためです。神様がどんな時にも力ある方であり、私たちの希望であること、これが神が義とされることです。

感謝をしよう

もっとも、信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です
『テモテへの手紙一』第6章6節

勤労には、報酬があります。大きな報酬を得たいならば、誰もしたくない仕事をするか、人よりも多くの働きをするべきです。しかし、信仰は勤労ではありません。信仰は、イエス様の血潮の恵みによって、無償で与えられた恵みに応えるための道です。信仰によって恵みを得るためには、まず恵みに感謝をすべきであると、御言葉は教えるのです。信じても何も良いことがないではないか、と不満に思う人は、与えられているものに感謝する心を思い起こしましょう。そのような信仰こそ、私たちの生を豊かにする最善の道なのです。

ロマ書(147)神の義が全うされることが救いである

このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。(3:26)
 幸せになろうと願うことは大事なことです。しかし、そのためには、何がなんでも、自分の思い通りにしようとする考えを、改める必要があります。自分の願いがことごとく実現することではなく、私たちを愛してくださる、神様の御心が、わたしたの人生のなかに実現することによって、私たちはほんとうの意味で幸せな者となるのです。

 もう一度、『ローマの信徒への手紙』第3章21~26節を、読み直してみたいと思います。神様は、新しいことを行われたと、御言葉は告げ知らせます。それは、律法を守ることによってではなく、イエス・キリストを信じる信仰によって、神の義が私たちに与えられるということです。

ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。(3:21)

 救いが与えられるとは語られていません。《神の義》が与えられると言われています。神の義が与えられるとは、神様の正しさが、私たちの人生に全うされることです。それこそが救いなのです。ともすると、私たちは、自分の都合のいいように救いを理解しようとします。苦難や重荷や、病気がなくなる、といったようにです。しかし、イエス様を信じても、苦しみはなくならないし、病気は治らないし、困難な状況はまったく変わらないし、すこし救われていないような気がすることがあります。聖書は、そんな楽観的な救いを約束してはいないのです。

神の子の願い

神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。
『ローマの信徒への手紙』第8章14節

人がもつ信仰は、もしかしたら、人間的な信念や願望に過ぎないかもしれません。そうではなく、神の霊に導かれているのだという確信は、どうしたらもつことができるでしょうか。肉の願いは、誰もが願うことを願います。夢が叶うこと、正しさが認められること、プライドが保たれること、要するに自分が満たされることです。しかし、神の霊は、肉の願いが決して願い得ない願いへと、私たちを導きます。それは、私たちが、キリストと共に十字架につけられるということです。そのうような願いに生かされる者が、神の霊によって導かれる者だと言えるのです。

ロマ書(146)それはサタンではなく、神の恵みである

このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。(3:26)
 使徒パウロが、自分自身の経験を語っています。

わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。(『コリントの信徒への手紙二』第12章7~8節)

 《とげ》というのですから、鋭い痛みがあったのでしょう。使徒は、これを《サタンから送られた使いです》とも言います。この病気で、使徒はたびたび主のために働くことを妨げられたに違いありません。《三度主に願いました》とは、三度きりという意味ではありません。それほど真剣に、そして深刻に、この病気と繰り返し戦ってきたのです。しかし、願いは聞き入れられませんでした。そのかわり、サタンの仕業と信じていた肉体の棘は、実は神の恵みであるという答えが返ってきたのです。

すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。

 人生には、蒔かないのに生えてくるもの、呼んでいないのに訪れてくるもの、願わないのに与えられるものがあります。そのとき、私たちは、人生を回復させようと、全力でそれと戦い、抜き取ろうとし、追い出そうとするに違いありません。しかし、それだけが人生の唯一の生き方ではありません。もしかしたら、それは敵ではなく、友かもしれない。災いではなく、神の恵みかもしれない。敵だ、災いだと思っているものが、人生の破壊者ではなく、新しい人生を与えてくれるものかもしれないのです。

愛を身につけよう

愛を身につけなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。
『コロサイの信徒への手紙』第3章14節

夢の実現であれ、病の癒やしであれ、願いが叶うことを信じ、希望をもって生きることは、いのちを力づけます。しかし、願いにしがみつき過ぎると、周囲に無関心な人となり、その人の存在は他の人々には無に等しくなります。最悪の場合、害にさえなります。他の人々に嫉妬し、邪魔者扱いし、敵愾心さえもってしまうからです。逆に、たとえ願いが叶わなくとも、あるいは犠牲にしても、人々に愛され、大切にされ、幸せに生きることがあるのです。ひとを愛することを身につけましょう。私たちは、いつも人々と共に生きているのです。

ロマ書(145) 早計に、それは悪だと言ってはならない

このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。(3:26)
 アントニー・デ・メロの「タンポポを愛する話」から、私は、イエス様の「毒麦のたとえ」を思い起こしました。ある主人が、畑に麦の種を蒔きます。麦が成長して、麦のなかに毒麦が混じって育っていることに気づきました。主人は、「敵の仕業だ」と言います。悪しき者がやってきて、夜のうちに、良い麦のなかに毒麦を蒔いていったのです。

 僕たちはそれを抜こうとしました。すると主人は、意外にも、それを押しとどめてこう言うのです。「刈り入れまで、抜かないでおきなさい。間違って、良い麦を抜いてしまうといけないから」毒麦を抜かないで放置しておくのは、解せない話です。しかし、毒麦と良い麦の判別は、思ったほど簡単なものではなく、刈り入れの日を迎えるまではわからないものだ、というのです。(『マタイによる福音書』第13章24~30節)。

 私たちの人生で、良い麦だと信じていたものが、実は毒麦であり、毒麦だと思い込んでいたものが、結果的には良い実りをもたらすことがあります。モンテーニュ(1533-1592)の『エセー』のなかにも、「帝王たちの行為は、その死後に検討されねばならぬ」という言葉があります(『エセー(1)』、岩波文庫、26頁)。良い帝王は、将来のことまで考えて政治を行うものです。今は悪政と思われていても、将来、その正しさが明らかにされることがあるというのです。私たちが、日常的に遣う言葉でいえば、「何が幸いするか、わからない」ということです。

 ですから、今起こっていることだけをみて、軽々に、毒麦と判断してはならない、刈り入れの時にそれが明らかにされるまで、様子をみなさいと、イエス様はおっしゃるのです。

神の風

風は思いのままに吹く。   
『ヨハネによる福音書』第3章8節

人生には様々な風が吹きます。心地よい風だけならいいのですが、思いがけないいたずらをしてく風もあれば、大切なものを吹き飛ばしてしまう強風、烈しい逆風が吹くこともあります。私たちはそれらの風を選ぶことも、風を操ることもできません。《風は思いのままに吹く》からです。しかし、聖書から《風》という言葉を拾い出して読んでみて下さい。すべての風は、神様のもとから吹き、神様の御心を行っていることが分かります(例 民数記11:31)。また、イエス様はその風をご支配することができるお方であることも分かります(例 マタイ8:27)。人間にとってままならぬ、やっかいな風も、実は神様の御心と御業を行うために吹く風なのです。
日本基督教団 荒川教会

牧師 国府田祐人

Author:牧師 国府田祐人

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