ロマ書(158)新約聖書の一神教

それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。(3:29-30)

 新約聖書でも、偶像を否定することに変わりありません。それと共に、神様は唯一の神様だから、神様が与えてくださる救いの道も、この神様によるほかないのだという視点がはっきりとしてきます。その唯一の救いの道こそ、イエス様を信じる道であるというのです。

 『ヨハネによる福音書』第14章6節で、イエス様はこう言われています。

わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。

 また、『使徒言行録』第4章12節には、ペトロの口によって、こう語られています。

ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。

 神様が与えてくださった救いの道は、イエス様によって救われるほかないのだ、といわれます。そして、その意味は、ユダヤ人であろうが、異邦人であろうが、どんな人であっても、イエス様を信じれば救われるということだと、『ローマの信徒への手紙』は語るのです。割礼のあるユダヤ人であろうと、割礼のない異邦人だろうと、神様が与えてくださったイエス様を信じることによって救われる。神様は唯一であるとは、救いの道が唯一であるということである、という意味なのです。

ロマ書(157)旧約聖書の一神教

それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。(3:29-30)

 一神教とはいかなる信仰か、私たちはきちんと聖書に聞かねばなりません。すると、旧約聖書と新約聖書では、唯一の神様に対する信仰の姿勢が違っていることに気づきます。

 旧約聖書の唯一神への信仰は、偶像礼拝の禁止と結びついています。神様は天地万物の造り主であり、唯一の神様です。ほかに神様はいません。太陽も、石も、動物も、草木も、すべては被造物であって、神様ではありません。偶像とは、人間が造り出した想像上の神様を、神様として信じることです。

 人間が、神様を造り出すとは、金の小牛をつくって、これがあなたがたの神様だというようなことばかりではありません。有限なものに、無限の意味や究極的な価値を与えること、これが偶像礼拝です。生きるために大切なものはひとつとではありません。衣食住も大切です。お金も大切です。健康も大事です。仕事も大切です。家族も大切です。国家も大事です。しかし、そのようなものが、一時的に、価値を持ち、目的となることがあっても、究極的な目的となってはいけないのです。そうなってしまったら、そこからしか物事を考えられなくなる。そういう価値観、世界観に生きるようになる。それは間違った生き方です。虚構のうえに立つ価値観、世界観です。それが偶像礼拝です。

 偶像礼拝は、単に異教徒たちの信仰ではなく、私たちの生き方に関わることです。まことの神様を信じると言いながら、有限なものに、無限の価値を与えるような生き方をすれば、偶像礼拝です。旧約聖書は、そういう偶像礼拝を、かたく禁じます。そして、私たちの造り主であり、私たちの人生の主である、まことの神様を信じて生きることを求めるのです。

ロマ書(156)一神教は排他的か

それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。(3:29-30)

 わたしたちが信じる神様は唯一の方で、すべての人にとっての創造主、そして救い主です。しかし、近年、イスラム国のテロを例にとり、このような一神教は排他的で暴力的だと非難する人がいます。対して、多神教の日本では、他宗教に対しての寛容性があるというのです。

「私は、かつての文明の方向が多神教から一神教への方向であったように、今後の文明の方向は、一神教から多神教への方向であるべきだと思います。狭い地球のなかで諸民族が共存していくには、一神教より多神教のほうがはるかによいのです。」(梅原猛『森の思想が人類を救う』小学館、1995年、158頁)

 梅原猛氏は、一神教は、排他的で、紛争・戦争や自然破壊の原因となる。一神教的な考えを捨て去り、多神教的な考え方に移行すれば、戦争や自然破壊の問題は解決すると言っています。岸田秀氏も同様の考えです。

「だから、世の中でいちばん迷惑というか害が大きいのは、一神教と一神教との喧嘩 ですね。今のキリスト教国のアメリカとイスラム圏との争いというのは、人類の未来 にとって非常に危惧すべきことではないかと思います。これはやはり一神教の病理で、 はっきり言えば、一神教が人類の諸悪の根元なんで、ユダヤ教もキリスト教もイスラ ム教も、一神教がすべて消滅すればいいんですけれどね(笑い)。」(岸田秀・小滝透『アメリカの正義病、イスラムの原理病―一神教の病理を読み解く』
春秋社、2002年、236頁)

ロマ書(154)空の器

なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。(3:28)

 福音とは、イエス様がしてくださったこと、してくださることによって、私たちが救われることです。そのイエス様の救いを受け取り、その救いに生きることが信仰です。

 カルヴァンは、「信仰とは空の器である」と申しました。信仰それ自体は、何の価値もない、というのです。その信仰に価値をもたらすのは、イエス様の恵みです。イエス様によって与えられる神の恵みを受け取る器、それが信仰なのです。

 旧約聖書の預言者エリシャの仲間の預言者が死にました。夫が死んで、生活に困ったやもめが、エリシャに助けを求めてきました。エリシャは、「あなたの家には何があるか」と答えると、油が一壺のほか何もないという返事が返ってきます。そこで、エリシャは、隣近所に行って、「空の器をできるだけたくさん借りてきなさい。そして、その空の器に、油を注ぎなさい。」といいます。果たして、やもめがそのようにすると、一壺の油は、用意したすべての空の器をいっぱいに満たしました。やもめは、その油を売って、生活をしました。

 空の器自体は、何の価値もありません。価値があるのは、その中に注がれる油です。その油が、やもめの生活を支えました。信仰も同じです。信仰それ自体には、価値はありません。しかし、そこに注がれる神の恵みが、私たちを生かすのです。まことの信仰は、「信じる」という自分の行いによって生きるのではなく、「神の恵み」によって生きるのです。

ロマ書(154)空の器

なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。(3:28)
 福音とは、イエス様がしてくださったこと、してくださることによって、私たちが救われることです。そのイエス様の救いを受け取り、その救いに生きることが信仰です。カルヴァンは、「信仰とは空の器である」と申しました。信仰それ自体は、何の価値もない、というのです。その信仰に価値をもたらすのは、イエス様の恵みです。イエス様によって与えられる神の恵みを受け取る器、それが信仰なのです。

 今日は、旧約聖書の預言者エリシャのお話を合わせて、お読みしました。エリシャの仲間の預言者が死にました。夫が死んで、生活に困ったやもめが、エリシャに助けを求めてきました。エリシャは、「あなたの家には何があるか」と答えると、油が一壺のほか何もないという返事が返ってきます。そこで、エリシャは、隣近所に行って、「空の器をできるだけたくさん借りてきなさい。そして、その空の器に、油を注ぎなさい。」といいます。果たして、やもめがそのようにすると、一壺の油は、用意したすべての空の器をいっぱいに満たしました。やもめは、その油を売って、生活をしたという話です。

 空の器自体は、何の価値もありません。価値があるのは、その中に注がれる油です。その油が、やもめの生活を支えました。信仰も同じです。信仰それ自体には、価値はありません。しかし、そこに注がれる神の恵みが、私たちを生かすのです。まことの信仰は、「信じる」という自分の行いによって生きるのではなく、「神の恵み」によって生きるのです。


日本基督教団 荒川教会

牧師 国府田祐人

Author:牧師 国府田祐人

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