ロマ書(184)律法主義は支払いを求める

ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。(4:4-5)

「あれをしてはならない」「これをしてはならない」という信仰が律法主義です。律法主義は、功績主義であると言ってもよいでしょう。功績主義は、ユダヤ人のみならず、どんな人間にもあります。よく仕事をした人とそうでない人、それによって評価が違ってくる。そのようなことが、私たちクリスチャンの間にもあるのではないでしょうか。荒川教会もそうですが、教会のなかには本当に素晴らしい信仰をもって、教会を支え、牧師を支え、兄弟姉妹を励ましておられる方がいます。そういう兄弟や姉妹を、心から尊敬し、模範とすることは、すこしも間違ったことではありません。大いに尊敬し、模範としていただきたいと思います。

 しかし、そういう兄弟姉妹は、実はそれを自分の働きを、自分の功績などとは少しも考えていません。恵みに溢れているから、感謝して捧げることを惜しまず、愛の労苦を厭わないのです。ですから、けっして自分の働きを誇りません。むしろ感謝し、神様のお陰として、神様を讃えるのです。そのような信仰を模範としなければなりません。

 良い行いをすれば、神様の愛や恵みをのではないのです。そもそも、そのような功績あるものに注がれるものは、愛や恵みと呼ぶいただけることすらもできません。では、何と呼ぶか。支払いです。

『ローマの信徒への手紙』第4章4節には、こう書かれています。

ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。
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律法主義は支払いを求める

ロマ書(183)福音を信じる難しさの理由

ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。(4:4-5)

 『ローマの信徒へ手紙』第3章24節に、こう書いてありました。

ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。

 《神の恵みにより無償で義とされる》とあります。罪がゆるされるためには、イエス・キリストの十字架を信じるだけでいい。何もしなくてもいい。ただ、十字架に表されている神様の愛を信じて受け入れればいいのです。

 ここに信仰の難しさがあります。あれをしなさい、これをしなさいと言われた方が、まだやさしいかもしれません。わたしの知っている方で、洗礼は受けいていませんが、熱心に求道中の男性がいました。娘が重い病気にかかり、なんとか神様の助けは欲しい彼は、自宅から教会までの数キロを徒歩で往復し、お百度参りをして祈りました。キリスト教信仰とはいえませんが、そこに父親としての愛情と祈りがあることをひしひしと感じました。しかし、これはけっして難しいことではありません。娘の命が救われるならば、百が二百だろうが、千だろうが、往復するでしょう。

 しかし、神様は、「何もする必要はない。ただ十字架を仰ぎ、そこに現されている神様の愛を信じなさい」と、おっしゃるのです。あまりにも簡単すぎる。ほんとうにそんなことではいいのか、と思ってしまう。だから、福音を信じることが難しいのです。救われるためには何かをしなくてはならないという考えを、徹底的に退けることが難しいのです。

ロマ書(182)救いを受け取ることが信仰

ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。(4:4-5)

 こんな状況を思い浮かべてください。大喧嘩のすえに友に大けがをさせてしまった。あなたは、自分の愚かさを深く後悔し、何日も苦しみ続け、勇気を出して謝罪と見舞いに行くことを決心します。ゆるしてもらうためではありません。二人の関係は、もう修復不可能だとわかっていました。それでも、謝罪しないではいられないのです。あなたは友に謝罪をしました。「ぼくはあなたに罪を犯した。何もなかったことなどにはできません。とても償えることではないけれども、君のためにできることは何でもします」すると、友から思いがけない言葉が返ってきました。「ぼくは君をゆるす。この事件はなかったことにしよう。僕と君は、何事もなかったように、これまでどおり親友だよ」。あなたは、自分の犯した罪の大きさを思えば思うほど、彼のゆるしを素直に受け入れることができません。

 しかし、事実、友人は彼をゆるしてくれているのです。それを受け取らないで、大切な友人を失い、自分で自分を責め続けることが、いちばん正しい道でしょうか。「ゆるす」という言葉を信じ、自分を責め続けることをやめ、ゆるされた大きな感謝をもって、もういちど友人との新たな関係を築くことこそ、あなたのなすべきことではないのでしょうか。それは、難しいことです。ゆるしてもらうのが難しいのではなく、そのゆるしを受け入れることが難しいのです。

 神様のゆるしも、これとまったく同じ事です。罪のゆるしという最大級の愛の贈り物を受け取るためには、それを受け取って、その恵みの感謝に生き、神様との新しく以前にもまして親密な関係を築いて生きるほかありません。それが信仰です。この信仰によって、神様のゆるしを受け取り、新しい神様との関係に生きる者とされる、これがクリスチャンなのです。

ロマ書(181)旧約聖書とイエス様②

聖書には何と書いてありますか。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」とあります。(4:3)

 旧約聖書ならば、イエス様の時代の律法学者やファリサイ人、サドカイ人と言われる人たちこそ熱心に読んでいたのではありませんでしょうか。それにもかかわらず、彼らは、聖書の言葉が、イエス様と結びつきませんでした。聖書の正しい読み方をしていなかったからです。

 イエス様は、そのような彼らを批判して、こう言われました。

あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。

 どんなに熱心に聖書を研究したとしても、イエス様のことを知ろうとして読むのでなければ、聖書から正しいメッセージを汲み取ることはできません。よく言われることですが、新約聖書のひかりに照らして、旧約聖書を読むことが大事です。そうすると、旧約聖書が、新約聖書を裏打ちすることになります。こうして、私たちの信仰は、聖書によって深められていくのです。

 難しいことを言っているように聞こえますが、実は、私たちは、すでにイエス様を知っているですから、どう読んだとしても、つまりあまり意識しなくても、新約のひかりで旧約聖書を読むことになります。自然に、そうなるのです。従って、あまり気張らずに、旧約聖書を読んでみることをお勧めしたいと思います。そして、聖書に裏打ちされたしっかりとした信仰を持つ者にされたいと願います。



ロマ書(180)旧約聖書とイエス様

聖書には何と書いてありますか。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」とあります。(4:3)

 『コリントの信徒へ手紙1』の第15章3~5節に、パウロが復活の主、生けるキリストに出会ったという経験が語られています。

最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。

 復活の主を語るのに、私たちは実際に見て、出会ったのだという体験が語られています。しかし、それだけではなく、それは《聖書に書いてあるとおり》であったと、二回も繰り返して語られるのです。どんな宗教的な体験であっても、聖書に裏付けられていなければ、意味がないからです。

 そして、この場合の聖書は、いま私たちが旧約聖書と呼んでいるものであることを忘れてはいけません。まだ、新約聖書は存在していないからです。行いによってではなく信仰によって救われることも、イエス様の復活も、すべて旧約聖書に書かれているとおりのことなのだと言っているのです。

 旧約聖書は、イエス様が生まれる以前のものですから、イエス様のことは直接かかれていません。しかし、イエス様とは誰なのか、なぜイエス様によってでなければ救われないのか、そのことは旧約聖書を読み、神様の救いの御計画と約束、その歴史からわかるのです。旧約聖書とイエス様の誕生が結びついてこそ、イエス様の十字架の贖い、復活、信仰義認の信仰が、深い根によって支えられ、何があっても吹き飛ばされない信仰になるのです。

日本基督教団 荒川教会

牧師 国府田祐人

Author:牧師 国府田祐人

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