ロマ書(167)律法の義では得られないもの

それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。(3:31)

使徒パウロは、バリバリの律法主義者から、キリストを信じる信仰に生かされる者に身をかえた人です。それによって何が変わったのか。自分の満足や誇りを求めなくなりました。律法を守って生きるということも、どうでもよくなった。それよりも、イエス様を知ることの喜びを求めるようになったというのです。『フィリピの信徒への手紙』第3章5~9節からをお読みします。

わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。

 パウロは、自分の体に鞭叩いて、律法に従わせることができた人です。それを、自分の誇りとし、満足としてきた人です。しかし、イエス様を知る喜びは、それとは比べものにならないものであると言うのです。なぜなら、律法の義では得られなかったものが、イエス様を知ることによって得られたからです。それは何でしょうか。ひとことで言えば、心の平和ではないでしょうか。

ロマ書(166)言葉ではなく御心に従う

それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。(3:31)

 イエス様が、バプテスマのヨハネから洗礼を受けようとしたとき、ヨハネはためらいました。イエス様は洗礼を受ける必要があるのか。その靴の紐を解く値打ちもないような私が、イエス様に洗礼を授けていいのか。

 躊躇するヨハネの思いを感じ取られたイエス様は、《正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです》と言われました。つまり、正しいこととは、自分がどう思うかではなく、神様がこれを望んでおられることに従うことではないか、われわれの正しさとはただそこのみにあるのではないか、といわれたのです。

 この出来事が象徴しているように、イエス様の全ご生涯は、徹底的に、神様に従うものでした。『フィリピの信徒への手紙』には、こう語られています。

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。(『フィリピの信徒への手紙』第2章6~8節)

 イエス様は、神様が完全に満足されるまで、神様に従順であることに徹せられたのです。それは、文字として命じられている律法を守ること以上のことです。律法は神様から出たものですから、当然、神様の御心を表していることでしょう。しかし、すべてが文字に言い尽くされているのではありません。文字の背後にある神様の御心を知り、それを満足させるような生き方をするということなのです。

ロマ書(165)イエス様が律法を確立する

それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。(3:31)

 信仰は、律法を無にするのではなく確立するものです。イエス様ご自身も、こう言われました。

わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。

 信仰が律法を確立するとは、どういうことでしょうか。信仰をもてば律法を守れるようになるのでしょうか。そうだとしたら、私たちは自分が信仰者だという自信がもてません。信仰者であるにも関わらず、しばしば神様に従えない事実があるからです。そして、こう考えるのです。自分には、信仰が足りないのだ。信仰をもてば、きちんと神様に従うことができるはずだ。もっともっと神様に喜ばれる人間となれるように努力をしなけば、と。ところが、そうするとこんどは、偽善者になってしまう。信仰がないのに、行いや言葉で、信仰の足りないところをあるように見せかけようとしてしまいます。神様に従えないのは、信仰がないからです。しかし、人間的な努力によって、神様に従おうとすれば、律法主義者になってしまうのです。

 どうすればいいのでしょうか。信仰のみだと言って、律法すなわち神様が求め給うことを無視すれば、行いのない死んだ信仰となってしまい、信仰もないのに行いや言葉を追い求めれば、律法主義者になってしまう。信仰によって律法を確立するとは、いったいどういうことなのでしょうか。
 そこで、まずイエス様の御言葉に注目したいと思います。イエス様は、「わたしが来たのは、律法を完成させるためである」と言われました。イエス様が、律法を完成させるのです。

ロマ書(164)律法と信仰は表裏一体

それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。(3:31)

 信仰があるから、律法は必要ないということはありません。私たちは、しばしばこう考える。律法は守れない。しかし、信仰があるから大丈夫だ、と。そうではありません。《信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。》と、聖書は告げています。律法と信仰は、ちょうど「表と裏」、つまり行いと心の関係にあるといえます。信仰があれば、当然、神様を敬います。それは、神様に聞き、神様に従うという行いによって現れます。これが律法の求めるところを満たすということです。上記の御言葉で言えば、《律法を確立する》ということです。

 『ヤコブの手紙』第2章14~17節には、こう語られています。

 わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。

 行いが伴わない信仰は、死んだものであると言われています。神様に従えなくても、信仰があるから大丈夫などと安心していてはいけないのです。神様に従わない信仰はありません。信仰があれば、神様に従うのです。信仰と律法は、表裏一体をなすのです。

ロマ書(161)すべてのひとの神

それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。(3:29-30)

  唯一の神への信仰は、すべての人が認め、すべての人が尊び、すべての人が、そこから愛を汲み取ることができる神様を信じる信仰です。だからこそ、イエス様は「すべて造られた者に宣べ伝よ」と言われ、「すべての国民をわたしの弟子にしなさい」と言われました。そのために、「地の果てまで、あなたがたを遣わす」と言われました。
 
あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。(『使徒言行録』第1章8節)

 《地の果て》とは、どこでしょうか。単純に「世界中」という意味にとることができます。しかし、空間だけではなく、時間的な果ても考慮しなくてはいけません。世界中に、そして終わりの日まで、あなたはイエス様の証し人として生きよ、という事です。

 はっきりさせなくてはならないのは、この「果て」は自分が区切るのではない、という点です。自分は、これでおしまいだ、ここまでだ、これ以上は無理だ、あの人だけは例外だ、と自分で自分の限界を作ってはいけないのです。自分の殻を越えて、私たちは神様によって、神様の僕として生かされるのです。

 神様は、ユダヤ人だけの神様ではない。サマリア人の神様でもあり、異邦人の神様でもある。私の神様であるだけではない、あの人の神様でもあり、この人の神様でもある。そのように、自分が定めた境界線を越えて行くことが、《地の果て》に向かうことです。唯一の神様を信じるとは、むしろ排他的な自分を乗り越えていく力、たとえば敵をも愛する力となっていくのです。
日本基督教団 荒川教会

牧師 国府田祐人

Author:牧師 国府田祐人

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