ロマ書(195)不幸とは何か②

では、この幸いは、割礼を受けた者だけに与えられるのですか。それとも、割礼のない者にも及びますか。わたしたちは言います。「アブラハムの信仰が義と認められた」のです。(4:9)

 ダビデはこう言っています。『ローマの信徒への手紙』第4章7~8節、

「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、
 幸いである。
 主から罪があると見なされない人は、
 幸いである。」

 罪がゆるされる幸いが語られています。それによって、神様や、隣人や、自然との関係を回復することができるからです。

 止揚学園の福井達雨先生が、ある夏の日、園の子どもたちと雑草を刈っていました。あまりの暑さに、福井先生はつい、子どもに愚痴をこぼしてしまいます。「雑草ってイヤな草やなあ。ほんとうに雑草なんて、あらへん方が良いのになあ。そしたらこんなシンドイ思いせんでもいいのに」すると、子どもは「ぼく、そう思わへん。雑草はどんどん生える、チェリヤ(止揚学園にいるポニー種の馬の名前)元気になる、ありがとうやろ」と答えたそうです。

 たいがいの人は、草刈りをたいへんだ、つらい、だから雑草はイヤだ、と考えるでしょう。少しでも楽をしたい。幸せになりたい。相手なんてどうでもいいと思ってしまうのです。しかし、自分中心の考え方を離れるとどうなるか。「雑草がどんどん伸びるのは素晴らしい事だ。雑草が伸びてくれるから、チェリヤがそれを食べて元気になるんだ。雑草は、自分の命を投げ出してチェリヤの命を守ってくれている。だから雑草に「ありがとう」と言わなければ」となるのです。

 どちらが、幸せな生き方をしているか。どちからが感謝と喜びを知っているか。言うまでもないことです。これが罪をゆるされ、交わりの回復に生きる者の姿なのです。

ロマ書(194)不幸とは何か②

では、この幸いは、割礼を受けた者だけに与えられるのですか。それとも、割礼のない者にも及びますか。わたしたちは言います。「アブラハムの信仰が義と認められた」のです。(4:9)

 ダビデはこう言っています。『ローマの信徒への手紙』第4章7~8節、

「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、
 幸いである。
 主から罪があると見なされない人は、
 幸いである。」

 罪がゆるされる幸いが語られています。それによって、神様や、隣人や、自然との関係を回復することができるからです。

 止揚学園の福井達雨先生が、ある夏の日、園の子どもたちと雑草を刈っていました。あまりの暑さに、福井先生はつい、子どもに愚痴をこぼしてしまいます。「雑草ってイヤな草やなあ。ほんとうに雑草なんて、あらへん方が良いのになあ。そしたらこんなシンドイ思いせんでもいいのに」すると、子どもは「ぼく、そう思わへん。雑草はどんどん生える、チェリヤ(止揚学園にいるポニー種の馬の名前)元気になる、ありがとうやろ」と答えたそうです。たいがいの人は、草刈りをたいへんだ、つらい、だから雑草はイヤだ、と考えるでしょう。少しでも楽をしたい。幸せになりたい。相手なんてどうでもいいと思ってしまうのです。しかし、自分中心の考え方を離れるとどうなるか。「雑草がどんどん伸びるのは素晴らしい事だ。雑草が伸びてくれるから、チェリヤがそれを食べて元気になるんだ。雑草は、自分の命を投げ出してチェリヤの命を守ってくれている。だから雑草に「ありがとう」と言わなければ」となるのです。

 どちらが、幸せな生き方をしているか。どちからが感謝と喜びを知っているか。言うまでもないことです。これが罪をゆるされ、交わりの回復に生きる者の姿なのです。

ロマ書(194)不幸せとは何か①

では、この幸いは、割礼を受けた者だけに与えられるのですか。それとも、割礼のない者にも及びますか。わたしたちは言います。「アブラハムの信仰が義と認められた」のです。(4:9)

 幸せとは何かというお話をしてきましたが、今度は不幸の原因は何かというお話をしなくてはなりません。聖書は、このことも明確に語っています。それは、貧困ではない、病気でもない、知識や能力の不足でもない、仕事上の挫折でもない、ましてあの人がいるから、この人がいるからということでもないのです。聖書が、人間の不幸の原因としてしているのは、ただひとつ、罪です。

 先日、荒川教会のホームページを見たという人から電話がかかってきました。

「先生、聖書には神様がすべてものをお造りになったと書いてありますね。」
「はい、書いてあります」
「神様がお造りになったものは、すべてのものが良かったと書いてあるじゃないですか」
「そうですね」
「じゃあ、どうして神様はゴキブリとか、蚊とか、害虫とか、そんなもんを造ったのでしょうか」

 こういう問題も、実は罪と関係があります。人間の罪は、神様と人間、人間と自然、人間と人間の関係を壊すのです。そこに敵対関係が起り、人間は神様からも、隣人からも、自然からも、孤立し、じつに脆弱な存在となってしまうのです。『コヘレトの言葉』のなかに、《三つよりの糸は切れにくい》(4:12)という言葉があります。神様と人間と自然が三つよりの糸となっていれば、私たちはしっかりとした人間として、自分を生きることができます。この三つよりの糸をバラバラにほどいてしまうのが、罪なのです。

ロマ書(193)幸せとは何か③

では、この幸いは、割礼を受けた者だけに与えられるのですか。それとも、割礼のない者にも及びますか。わたしたちは言います。「アブラハムの信仰が義と認められた」のです。(4:9)

 何度かお話したことがありますが、こんな話があります。ある朝、神様が庭に入ってみると、主が植え、手塩にかけて育てられた草木たちが、今にも枯れそうにしおれているのを見ました。神様は、そのわけを尋ねました。すると、ツツジは「私は松のようにもっと背が高くなりたいと悩んでいるのだ」と、元気なく答えました。松の木は、松の木で、「私は葡萄のように甘い実を結びたいのだ」と悲しんでいました。葡萄の木もまた「私は、杉のようにもっとまっすぐに立ちたいのだ」と不満をもらしていました。主の庭のすべてが、そんな有様だったのです。最後に神様は、路肩で小さな花をつけているスミレをみつけました。このスミレだけは不思議に元気よく、輝いて花を咲かせているのでした。神様はうれしなって、スミレに話しかけました。「ヤァ、スミレ、お前だけは元気でいてくれてうれしいよ」

 スミレは答えました。「ハイ、主よ。私は取るに足らぬ小さな花ですけれど、もしあなたがツツジや、松や、葡萄や、杉が欲しければ、それをお植えになったでしょう。しかし、あなたは小さなスミレの花を見たくて、私を植えて下さり、そのために最上のお世話をしてくださっていますから、わたしは最上のスミレになる決意でいるのです」

 神様はスミレをご覧になりたいから、スミレをお作りになりました。それを知っているから、スミレは、スミレとして一所懸命に咲く。私たちも、それぞれみんな違いますけれども、スミレのように、生まれたままの姿のうちに、神様の恩寵があると信じ、神様を愛し、自分を愛し、自分を一所懸命に生きるということが、幸福感に繋がってくるのです。簡単なことです。自分らしく生きればいいのです。

ロマ書(191)幸せとは何か①

では、この幸いは、割礼を受けた者だけに与えられるのですか。それとも、割礼のない者にも及びますか。わたしたちは言います。「アブラハムの信仰が義と認められた」のです。(4:9)
 『幸福論』で有名なアランという哲学者がこういうことを言っています。

 老いた王さまが家来たちとトランプ遊びをするとしよう。王さまは負ければ怒るし、家来たちもそのことをよく知っている。だから、家来たちが遊びのこつを覚えてしまえば、王さまは絶対負けない。その結果を見たまえ。王さまはトランプを放り投げてしまう。立ちあがって、馬に乗る。狩りに出かける。しかし、王さまの狩りである。獲物の方が王さまの足もとにかけ込んでくる。ノロジカもまた宮廷人なのだ。・・・王さまには欲しいなと思っている暇など与えられないのだ。まわりの注意深い目が王さまの心をすばやく読んでしまう。(『幸福論』、「46 王さまは退屈する」、神谷幹夫訳、岩波文庫)

 何でも欲しいものが手に入れる王様は幸せかと言えば、決してそうではないというのです。健康、財産、名誉、知識、さまざまな才能を持っていても、それを幸せだと感じる心がなければ、幸せを味わうことができません。いや、誰だってそれだけのものを持っていれば、かならず幸せを感じるに違いないと思うかもしれませんが、実際はそうではないのです。



日本基督教団 荒川教会

牧師 国府田祐人

Author:牧師 国府田祐人

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