友と呼んで下さるイエス様

イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。すると人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕らえた。
『マタイによる福音書』第26章50節

イエス様は、ご自分を裏切ったユダに「友よ」と呼びかけておられます。その時、ユダの胸はきっと痛んだに違いありません。それと同じ痛みを感じることが、私にもあります。私もユダと少しも変わらず、イエス様を愛を裏切るようなことを繰り返す者だからです。このような者に、変わることなく「友よ」と呼びかけ続けてくださるイエス様を知るとき、私の心は打ち砕かれ、自分を憎みさえします。しかし、主は愛してくださっている。その愛にいかにお応えしようかと考えるところから、私の信仰者としての人生が始まりました。ユダは自死しましたが、私は生きています。その生を、ユダの死以上に真実なものにしなたいと思うのです。

罪に対して死んだ

罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。
『ローマの信徒への手紙』第6章2節

世は、「罪を犯してはならない」と言います。神の律法も、「罪を犯してはならない」と語ります。しかし、福音は、「あなたは罪に対して死んだ」と言うのです。イエス様が、私たちのすべての罪をたずさえて、墓にまで降られたからです。私たちは、もはや罪の中に生きることができないのです。しかし、実際は、なお罪の中にいるのではないでしょうか。そうです。罪の中にありながら、しかし罪に向かってではなく、神に向かって生きているのです。それを信じることがゆるされているのです。ここに福音があります。

忘恩の罪

ウジヤは、神の驚くべき助けを得て勢力ある者となり、その名声は遠くにまで及んだ。ところが、彼は勢力を増すとともに思い上がって堕落し、自分の神、主に背いた。
『歴代誌下』26章15-16節

 ウジヤは16歳で王様になった人です。その未熟さが、自信のなさが、彼を謙遜にし、主に頼る人間にしていました。しかし、自分が強くなり、成功を収めると、神様の恵みを忘れ、自分の力を誇り、自分が神であるかのように傲慢に振る舞うようになって、自らを滅ぼすに至ってしまったのです。自らを低くする人を、神様は高めてくださいます。他方、自らを高ぶる人に対しては、神様は御力をもってそれを砕かれます。豊かな時、順調な時にこそ、神の前に遜り、恵みに支えられていることを感謝できる人間になりたいと思います。

罪を悲しむ

イエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣き出した。 
『マルコによる福音書』14章72節

御言葉は「どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離しほどに刺し通して、心の思いや考えを見分ける」(ヘブライ4:12)と言われています。ペトロはまさに主の御言葉によって胸を刺し貫かれ、自らの尊大、愚かさ、頑なさを思い知り、その処置無き罪深さに泣き崩れたのでした。御言葉に親しむ私たちがこのような深い悲しみを経験しないで済むはずがありません。しかし、ペトロが涙で腫らした目をもって主の十字架の愛を仰いだように、私たちもまた深い罪の悲しみをもってそれを仰ぐことが許されているのです。 

闇から光へ

さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。
『ヨハネによる福音書』第9章1節

イエス様がごらんになったら、私たちはみな、《生まれつき目の見えない人》であるかもしれません。私たちの目には、私たちに注がれている天の父の愛も、私たちを取り囲んでいる救い主の恵みも、見えないからです。私たちは闇のなかに生まれ、闇のなかに生きています。もし、見えるようになったならば、私たちの世界も、人生も、一変するに違いありません。しかし、私たちが見えないのは、生まれつきです。見えるようになるために、神様の憐れみと奇跡が必要なのです。
日本基督教団 荒川教会

牧師 国府田祐人

Author:牧師 国府田祐人

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