歌によって語り合う

詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。
『エフェソの信徒への手紙』第5章19節

歌をもって語り合うとは、どういうことでしょうか。歌は、言葉に音楽が結びついたものです。リズムや旋律が、言葉に生き生きとした表現を与え、言葉のみで語る以上のことを、言葉に語らせます。歌の素晴らしい点は、声を合わせて歌うことができることです。人々は、斉唱することによって、語り合うこと以上に、心をひとつにすることができます。神の御言葉、信仰告白、祈り、それに音楽をつけ、声を合わせて斉唱すること、それが教会の交わりにふさわしいことはいうまでもありません。讃美歌を心を込めて歌いましょう。そして、教会の交わりを豊かなものにしましょう。


報酬ではなく恵みである

五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。
『マタイによる福音書』第20章9-10節

朝からたくさん働いた人も1デナリオン、夕方5時に来て少し働いた人も1デナリオン。正しい報酬とは思えません。この譬話は、「罪の赦し」という神様からの贈り物は、決して報酬ではないことを物語っています。それは報酬以上のものです。正しさ以上のものです。正しさをもってではなく限りない愛をもって、報酬としてではなく溢れる恵みとして、神様はこの贈り物をお与えくださるのです。




ロマ書(196)割礼は救いの条件ではない

どのようにしてそう認められたのでしょうか。割礼を受けてからですか。それとも、割礼を受ける前ですか。割礼を受けてからではなく、割礼を受ける前のことです。アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです。こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました。(4:10-11)

 9節には、罪がゆるされる幸せは、割礼を受けた者だけに与えられることなのか、割礼のない者にも与えられることなのか、と尋ねられていました。

 割礼は生まれてきた男の子の肉体に傷をつけ、それを自分たちが神に選ばれた民であることのしるしとするユダヤ人の儀式です。割礼の問題など、自分に関係がないと思うかも知れません。現に、私たちは割礼なしに、イエス様を信じる信仰によって救いに入れられています。しかし、「割礼」を「洗礼」に置きかえてみたら、どうでしょうか。割礼と洗礼は同じものとは言えませんが、どちらも救いのしるしとして、神様から与えられるものです。罪ゆるされ、神様との交わり、自然との交わり、隣人との交わりを回復されて、幸せに生きることができるのは、洗礼を受けたものだけなのか。それとも洗礼を受けていないものも救われるのか。

 その答えが、10節~11節に記されています。要するに、信仰がまず先にあったのだ、ということなのです。救いのしるしとは、救われるためのしるしではなく、救われたことへのしるしなのです。救いの条件ではありません。神様が救いと共に贈って下さる恵みなのです。これは割礼だけではなく、洗礼も同じです。

ロマ書(192)幸せとは何か②

では、この幸いは、割礼を受けた者だけに与えられるのですか。それとも、割礼のない者にも及びますか。わたしたちは言います。「アブラハムの信仰が義と認められた」のです。(4:9)

 往年のハリウッド・スターに、メアリー・アスター(1906~1987)という大女優がいます。美人コンテストに入賞したことがきっかけで女優となり、アカデミー賞を受け、華やかな結婚をし、二人の子供に恵まれました。ビバリーヒルズに邸宅を持ち、高価な毛皮を持ち、世界的な人気を博しました。女性として、これ以上望むものはないという成功を収めたひとです。しかし、孫引きですが、彼女は、自伝の中でこういうことを書いています。

 永い間ー絢爛たる名声の最中にいてもー私は自分の心を満たしてくれるもの、幸福にしてくれるものを求めて止まなかったのです。ただぼんやり無気力な好奇心で宗教を眺めていた時から・・・一人の人格としての、父としての神を見出し、信仰の中に歩むことが本当の人間の成長なのだと知るまでに、殆ど二十年かかりました」(キャサリン・マーシャル、『愛はいずこに』、日本教文社)

 もう半分答えが言ってしまったようなものですが、幸せは、職業的成功、物質的成功を収めることにではなく、父なる神様を信じることにあったというのです。私という人間を形作り、命を吹き込んでくださったお方を信じるということです。そうすれば、自分は生まれたままの姿で、それ以上何を得なくても、神様の恩寵を十分にいただいているのだということも信じられるのです。そして、感謝をもって、喜びをもって、神様がお造りになった自分を生きることができます。それが幸せというものでありましょう。

隠れている神の国

神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。
『ルカによる福音書』第17章20-21節

この世に理想の国はありません。その世界のなかで神の国を待望するのがわたしたちの信仰であり、希望でありましょう。その際、イエス様は、神の国は「来る」のではなく、あなたがたの間に「在る」と教えられました。神の国は、隠れて「在る」のです。その隠されている神の国を霊の目をもって見る。そして、それが必ず現れ、過ぎゆくものを圧倒することを待望する。これがわたしたちの信仰であり、希望です。ある人が言いました。理想の世はどこにもないが、信仰があればどこでもパラダイスであると。そう言えるようになりたいものです。
日本基督教団 荒川教会

牧師 国府田祐人

Author:牧師 国府田祐人

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