ロマ書(168)信仰によって義を確立する

それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。(3:31)

 自分の信念や努力で生きてきた人は、満足や誇りはもてるかもしれません。けれども、いつも戦い続けてそれを守らなければなりません。このように律法主義者には満足や誇りはあっても、平和がないのです。

 ところが、イエス様は、律法の完成者として与えられたご自分の義を、恵みとして、私たちに与えてくださるというのです。その義は、人間が努力で達し得たものより、はるかに確かな義です。それが、戦いによって勝ち取るのではなく、恵みとして与えられる。それが信仰によって確立される義です。パウロは、イエス様と共に生きることのうちに、この平和を見いだすのです。その証拠に、パウロは、この後、「私たちの本国は天国にあります」と言い切ります。もう天国が約束されているのだ、というのです。

 信仰によって、律法が確立されるという場合の信仰とは、私たちのために律法を全うされたイエス様が、わたしたちのうちに生きてくださると信じ、どこまでもイエス様と共にいようとする信仰のことでなのです。

 《キリストを得、キリストの内にいる者と認められるため》(フィリピ3:8-9)と、パウロはいいました。《キリストを得》とは、イエス様との真の出会いをすることです。《キリストの内にいる》とは、イエス様と深い交わりの中に入れられることです。このようなイエス様との出会い、交わりを求めるのが、信仰です。信仰は言葉ではありません。当然それにふさわしい行いが伴います。律法の文字をなぞるだけの行いではなく、イエス様との交わりを得るための行いです。

 イエス様との交わりを深め、真実なものにしようとするならば、わたしたちは律法の完成者であるイエス様のいのちに生かされる者になるのです。それが、信仰によって、律法が確立するということではありませんでしょうか。

ロマ書(163)神は心をみる(つづき)

それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。(3:31)

 サムエルが、主が選ばれる人に油を注ごうとして、エッセイの家にいきました。エッサイの長男エリアブを見たとき、サムエルはすぐに「この人だ」と直感します。しかし、神様は、サムエルに「違う」と言われました。『サムエル記上』第16章7節

しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」

 《人は目に映ることを見るが、主は心によって見る》、この御言葉を知っていたら、神様をごまかすことができないことは、すぐにわかりそうです。どんなに行いや言葉の立派さであっても、それが人々に評価されていても、神様は、それが信仰から来たものか、人間的な見栄から出たものか、かならず見分けられるのです。

 イエス様は、当時の律法学者やファリサイ派の人たちをご覧になって、白く塗られた墓だ、と評されました。白く塗られた墓は、表側が綺麗ですが、その内側には死んだ心、汚れた心が満ちている。イエス様は、それをご覧になったのでした。

隠れている神の国

神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。
『ルカによる福音書』第17章20-21節

この世に理想の国はありません。その世界のなかで神の国を待望するのがわたしたちの信仰であり、希望でありましょう。その際、イエス様は、神の国は「来る」のではなく、あなたがたの間に「在る」と教えられました。神の国は、隠れて「在る」のです。その隠されている神の国を霊の目をもって見る。そして、それが必ず現れ、過ぎゆくものを圧倒することを待望する。これがわたしたちの信仰であり、希望です。ある人が言いました。理想の世はどこにもないが、信仰があればどこでもパラダイスであると。そう言えるようになりたいものです。

ロマ書(162)神は心を見る

それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。(3:31)

 土居健郎氏は、日本人の贈り物の仕方について語ります。

 日本人は他人に贈り物をする際、それをまず綺麗な紙で包み、更にその上を風呂敷で包んで持参するのを常としたと思われる。もっとも、贈り物を包むことだけなら必ずしも日本人だけとは限るまいが、これを実際に相手に渡す時に口にする挨拶はかなり日本人に独特であったと思われる。というのは、渡す側は「これはほんとうにおしるしです」とか「つまらぬものですが」と云い、中に何が入っているかは明かされなかった。受け取る側も「そんなお心遣いして頂いて」とか何とか礼は云うが、中に何が入っているかは決してその場で聞こうとせず、まして客がいる前で包みを開けたりはしなかった。(中略)なぜなら物を贈るのは心を贈るのであって、物は心のしるしに過ぎない。だから心が肉体に包まれて外からは見えないように贈り物も念入りに包まれねばならぬ。またそうであればこそ受け取った贈り物をすぐその場であけて中を見るのは心なき業ということになる。そうすることにはあたかも相手の心のしるしとして贈り物を受け取るのではなく、ただ中の物だけが目当てであるごとき印象を与えかねないからである。(土居健郎、『表と裏』、弘文堂)

 贈り物の価値は、物にあるのではありません。心あればこそ、それが喜ばれるものになるのです。
 愛や信仰は神様への贈り物です。それは、やはりその裏に隠された心によって、真実になったり不真実になったりするのです。神様が求めておられるのは、立派な行いではなく、まことの心です。教会に行く。聖書を読む。祈る。愛の業に励む。立派な言葉で信仰を証しする。しかし、神様は、その行いの裏をご覧になります。そこにまことの心があるかどうかをご覧になるのです。

ほんとうの神様


あなたはいかなる像も造ってはならない。・・・あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。
『出エジプト記』第20章4-5節

どんな人も神様を思ったり、神様について考えたりすることができます。しかし、神様をつくることはだれにもできません。神様の栄光の一端に触れて、神様がわかったと思うこともありましょう。神様と出会ったという感覚をもつこともありましょう。しかし、「これが神様だ」と断言してしまった途端、限りない神様の栄光を人間の思想や経験の限界のなかに閉じ込めてしまうことになります。そこに偶像が生まれます。わたしたちは人間の限界のなかでしか神様を思うことができません。だからこそ、ほんとうの神様は人間の思いを超えたお方であることを認め、求道の心を忘れてはならないのです。

日本基督教団 荒川教会

牧師 国府田祐人

Author:牧師 国府田祐人

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