「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
『マタイによる福音書』第1章23節

イエス様は、人々の批判も称賛も気になさらず、そのようなものに左右されなず、ただ天の父の御心だけを思い、それに従うように生きられました。それにもかかわらず、イエス様のご生涯は、あらゆる人と共にありました。イエス様ほど人の思いを知り、共感し、寄り添われた方はありませんでした。イエス様は、私たちの愛に頼ることなく、天の父なる神様に愛をご自身の愛として、人を愛してくださるのです。ですから、イエス様はインマヌエル、「神われらと共にいます」と呼ばれたのでした。

ロマ書(110)ふつうの生活者として神を信じる

ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。(3:21)
 パスカルが、衣服の表地と裏地の間に縫い込んで、死ぬまで肌身離さず、大事にしていた「覚え書き」があります。

 アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。哲学者および識者の神ならず。

 私たちが信ずべき神様は、人間の思想の産物ではありません。アブラハム、イサク、ヤコブ、彼らは神学者でも、哲学者でも、神秘家でもありませんでした。ふつうの生活者です。家族を連れ、仕事をし、争いに巻き込まれ、怒ったり、悲しんだり、恐れたり、悔やんだり、欲望の虜になったりする。そのような実際の営みのなかで、神様は、彼らに語りかけ、祝福の計画をお示しになり、信じ、御許に生きるようにとお招きになったのです。

 そして、彼らはその神様を信じ、従い、その恵みと力を味わい、神様を讃美しました。信仰は、精神論ではありません。神様が共にいてくださることの祝福を味わい、その愛と恵みのなかに生活することなのです。

 イエス様は、こう教えておられます。
 
わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。(『マタイによる福音書』第7章21節)

 いかにも宗教的な雰囲気を身にまとって、「主よ、主よ」と呼んでいるだけでは、天の国を味わうことはできないと、イエス様は言われています。天の父が求めておられるのは、宗教的な雰囲気ではなく、私たちが、子として、天の父を愛し、敬い、信じ、御許に生きることなのです。

夏期休暇について

 いつもご訪問ありがとうございます。
8月8日~24日まで、夏期休暇をいただくことになりました。
このブログは、予約投稿にて今までどおり月曜日と木曜日に更新させていただきますが、休暇中はメールへのご返信はできなくなりますことをご了解ください。

皆様それぞれに夏の過ごし方があることと思いますが、健康が守られ、仕事にしても、レジャーにしても、恵まれた日々をお過ごしになりますようにお祈りしています。

荒川教会牧師 国府田祐人

病気療養中のためお休みしています。 次週より再開の予定です。

主よ、あなたは御業を喜び祝わせてくださいます。
『詩編』95章5節

私たちの喜びは、何があっても絶望しない可能性を、自分のうちに持っていることにあるのではありません。絶望しても、神様が私達の希望となってくださることにあるのです。また、私たちの喜びは、自分が一つも罪を犯さないでいられることにあるのではありません。私達の罪を赦し、清め給う神様の慈愛と峻厳を仰ぐことができることにあるのです。私たちの喜びは、自分自身の持っているもの中にあるのではありません。たとえ私達が何も持たない人間であっても、神様が与えてくださることにあるのです。
日本基督教団 荒川教会

牧師 国府田祐人

Author:牧師 国府田祐人

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