御言葉を信じる

「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。
『ヨハネによる福音書』第4章50節

死に瀕する息子に神の奇跡が行われることを願った父親は、「あなたの息子は生きる」という御言葉をイエス様から戴きました。彼はその御言葉だけを握りしめて家に帰ります。カナからカファルナウムまで40キロほどの距離です。その間、イエス様の御言葉以外に、彼の心を支えるものはありませんでした。怖れや不安と戦いながら、彼は御言葉にすがりついて歩き続けました。はたして「息子は生きる」と言われたまさにその時刻、息子は癒やされていました。御言葉を信じるとはどういうことか、この父親から学びましょう。

ロマ書(152) 自己実現の方便としての宗教

では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。(3:27)
 世界的救済などといいながら、個人の内面的幸福感という矮小化された救いを求めているのは、テロリスト集団イスラム国と同じです。彼らは自分たちの世界を実現するために、自分と違う人々を悪とみなし、平気で殺してしまうのです。日本からイスラム国に入ろうとした若者もいました。彼はイスラム教徒ではなく、特別な思想信条があるのでもありませんでした。ただ、この日本に、自分の居場所がない。生きづらい。それだけの理由だったのに驚きましたが、それはオウム真理教のときも同じだったと思います。自分ひとりの幸せ、救いだけを追い求めている。その結果、救いといっても、社会からかけ離れたところで、自分一人の満足を楽しむことに過ぎなくなっているのです。別の言い方をすれば、信仰とか、神様も、自己保全や自己実現のための方便になってしまっています。

 イエス様は、こう言われました。

わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。

 信仰は、自己実現の方便ではありません。むしろ、それを捨てて、イエス様を中心に生きる。自分を主語にして、「わたしが、わたしが」という人生ではなく、イエス様を主語にして生きる。そうすれば、イエス様が、わたしのなかに生きてくださる。そこに、罪に囚われた自分からの解放があり、神の子として生きる救いがあるのです。これが信仰です。

愚直さ

偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。
『マタイによる福音書』第24章11節

神のしもべを自認しながら、巧みにキリストを否定する者たちが偽預言者です。彼らの敵意は当然、私たちキリスト者に向けられます。そのような敵意に屈せず、キリスト者がキリスト者であり続けるために必要なことは何でしょうか。先ず主はいつもそのような敵意に身に負い、愚かな者、田舎者、冒涜する者と非難され続けたことを覚えなければなりません。私たちは文化的であるとか、知的であるとか、倫理的であるとか、そのような世の基準ではなく、愚直なまでにキリストの御言葉に固執することで造り上げられる者でありましょう。それが偽預言者の影響を免れる道なのです。

ロマ書(151)矮小化された救い

では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。(3:27)
  オウム真理教による地下鉄サリン事件から20年以上経ちます。当時、オウム真理教のみならず、幸福の科学などオカルトめく宗教が次々と誕生し、若者たちのブームを引き起こしていた時期です。統一協会の霊感商法が社会問題として騒がれたのも、この頃でした。わたしは、これをバブル経済の発生と崩壊よる日本社会のひずみだと考えます。

 とくに影響を受けたのが、若者たちです。フォークソング的な四畳半アパートの若者たちのライフスタイルが終わり、大人の消費社会に巻き込まれていきます。スキーとか、サーフィンとか、ジュリアナ東京とか、格好はいいけど、軽薄化していくのです。他方で、流行に乗れない若者たちが出てきます。ある意味、真面目な若者たちです。しかし、高度成長期が生み出した厳しい学歴社会のなかで、個性が否定され、与えられたことをきちんとできることだけが求められてきた若者たちは、自分で考えることができない。そういう若者たちが、生きる拠り所を求めたのが、オカルトとか、疑似科学、スピリチャルといわれる新宗教だったのではないでしょうか。

 その特徴は、世界救済などと宣伝しながら、自分一人の内面ばかりを見つめる宗教だったということです。しかし、教団のなかで達成した幸福感は、教団のなかでしか通用しません。普通は、それはおかしいと思うのですが、マインドコントロールがあり、また自分で考える力を失った若者たちの弱さがあり、教団を離れたところで行き場がない現実があり、畢竟、教団を絶対化し、世の中を否定するという発想に陥ってしまうのです。彼らの世界救済とは、世界がそっくり自分たちの教団になることにほかなりませんでした。

自分のほんとうの願いは何か

あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。
『ピリピ人への手紙』第2章13節(口語訳聖書)

「死にたい」と言っている人が、本当は死にたいわけではないことがあります。あれが欲しいとか、こうしたいとか、私たちにはたくさんの願いがありますが、よく考えて見ると、それは見栄であったり、代用や手段であったり、諦めであったり、他者の願いであったりすることも少なくないのです。心から余計な思いを取り去って、静かな心で自分の本当の願いを考えてみましょう。すると、それは案外シンプルなものであることに気づかされます。それこそ神様が与えてくださった自分の願いです。その願いに、もっと真っ直ぐに、シンプルに生きるならば、そこには必ず神様の御助けがあります。
日本基督教団 荒川教会

牧師 国府田祐人

Author:牧師 国府田祐人

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