ロマ書(155)自分を誇れない信仰

なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。(3:28)

 ガリラヤ湖で漁をしていたペトロは、一匹も収穫がないまま港に戻りました。すると、イエス様は、「もう一度、沖に出て漁をしなさい」と、ペトロに言われます。ペトロは、こう答えました。《先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう》(『ルカによる福音書』第5章5節)ペトロと仲間の漁師たちは、ダメ元で、沖に戻り、漁をします。すると、網がやぶれそうなほどの魚が捕れたというのです。

 どうせ、何もとれやしないという自分の確信や感情が、ペトロの心に溢れていました。そのままであったら、ペトロはイエス様のお言葉に従えなかったでありましょう。けれども、心にある自分の確信をなげ捨てて、《しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう》と言って、イエス様のお言葉に従う。これが信仰です。

 ペトロは、自分が御言葉に従ったことを誇りませんでした。むしろ、ペトロは、イエス様の足元にひ伏して《主よ、わたしから離れて下さい。わたしは罪深い者なのです》(同上、5章8節)といいました。まことの信仰は、自分を誇りません。むしろ、神の恵みの大きさに、打ち砕かれるのです。自分を無にして従ったという、自分の行いではなく、イエス様のしてくださったことの偉大さをたたえるのです。

 このような信仰こそ、《信仰の法則》にのっとった信仰です。信仰は、自分を誇ったり、ひとを裁いたりするためのものではなく、イエス様の救いを受け取り、その恵みに生きるためのものなのです。

聖霊を求めよう

自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。
『コリントの信徒への手紙1』第2章14節

人は、神の霊によって新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない、とイエス様は言われます。(ヨハネ3:3,5)と言われました。生まれながらのままでは、人は神の国の偉大さ、すなわち神様の知恵や力を理解できず、愚かだと見下してしまうのがオチだからです。聖霊を求め、聖霊によって新しく生まれ、聖霊の導きに従って歩みましょう。そして、人知をはるかに超えた神の国の偉大さを経験しながら、ダイナミックな信仰生活を送ろうではありませんか。

ロマ書(154)空の器

なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。(3:28)

 福音とは、イエス様がしてくださったこと、してくださることによって、私たちが救われることです。そのイエス様の救いを受け取り、その救いに生きることが信仰です。

 カルヴァンは、「信仰とは空の器である」と申しました。信仰それ自体は、何の価値もない、というのです。その信仰に価値をもたらすのは、イエス様の恵みです。イエス様によって与えられる神の恵みを受け取る器、それが信仰なのです。

 旧約聖書の預言者エリシャの仲間の預言者が死にました。夫が死んで、生活に困ったやもめが、エリシャに助けを求めてきました。エリシャは、「あなたの家には何があるか」と答えると、油が一壺のほか何もないという返事が返ってきます。そこで、エリシャは、隣近所に行って、「空の器をできるだけたくさん借りてきなさい。そして、その空の器に、油を注ぎなさい。」といいます。果たして、やもめがそのようにすると、一壺の油は、用意したすべての空の器をいっぱいに満たしました。やもめは、その油を売って、生活をしました。

 空の器自体は、何の価値もありません。価値があるのは、その中に注がれる油です。その油が、やもめの生活を支えました。信仰も同じです。信仰それ自体には、価値はありません。しかし、そこに注がれる神の恵みが、私たちを生かすのです。まことの信仰は、「信じる」という自分の行いによって生きるのではなく、「神の恵み」によって生きるのです。

ほんとうの必要

神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。
『コリントの信徒への手紙1』第1章30節

 イエス様は「わたしを離れては、あなたがたは何もできない」(ヨハネ15:5)と言われました。これが文字通り事実であることを、私は日々経験しています。他方、上記の御言葉は、イエス様につながることは神の知恵、義しさ、聖さ、贖いの恵みに結ばれることであると告げます。生きるために何か他に必要なものがありましょうか。この中に私たちの必要の一切があります。それに気づくならば、私たちの唯一の必要は、イエス様に結ばれた生活であると断言できることでしょう。

ロマ書(154)空の器

なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。(3:28)
 福音とは、イエス様がしてくださったこと、してくださることによって、私たちが救われることです。そのイエス様の救いを受け取り、その救いに生きることが信仰です。カルヴァンは、「信仰とは空の器である」と申しました。信仰それ自体は、何の価値もない、というのです。その信仰に価値をもたらすのは、イエス様の恵みです。イエス様によって与えられる神の恵みを受け取る器、それが信仰なのです。

 今日は、旧約聖書の預言者エリシャのお話を合わせて、お読みしました。エリシャの仲間の預言者が死にました。夫が死んで、生活に困ったやもめが、エリシャに助けを求めてきました。エリシャは、「あなたの家には何があるか」と答えると、油が一壺のほか何もないという返事が返ってきます。そこで、エリシャは、隣近所に行って、「空の器をできるだけたくさん借りてきなさい。そして、その空の器に、油を注ぎなさい。」といいます。果たして、やもめがそのようにすると、一壺の油は、用意したすべての空の器をいっぱいに満たしました。やもめは、その油を売って、生活をしたという話です。

 空の器自体は、何の価値もありません。価値があるのは、その中に注がれる油です。その油が、やもめの生活を支えました。信仰も同じです。信仰それ自体には、価値はありません。しかし、そこに注がれる神の恵みが、私たちを生かすのです。まことの信仰は、「信じる」という自分の行いによって生きるのではなく、「神の恵み」によって生きるのです。


日本基督教団 荒川教会

牧師 国府田祐人

Author:牧師 国府田祐人

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