ロマ書(196)割礼は救いの条件ではない

どのようにしてそう認められたのでしょうか。割礼を受けてからですか。それとも、割礼を受ける前ですか。割礼を受けてからではなく、割礼を受ける前のことです。アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです。こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました。(4:10-11)

 9節には、罪がゆるされる幸せは、割礼を受けた者だけに与えられることなのか、割礼のない者にも与えられることなのか、と尋ねられていました。

 割礼は生まれてきた男の子の肉体に傷をつけ、それを自分たちが神に選ばれた民であることのしるしとするユダヤ人の儀式です。割礼の問題など、自分に関係がないと思うかも知れません。現に、私たちは割礼なしに、イエス様を信じる信仰によって救いに入れられています。しかし、「割礼」を「洗礼」に置きかえてみたら、どうでしょうか。割礼と洗礼は同じものとは言えませんが、どちらも救いのしるしとして、神様から与えられるものです。罪ゆるされ、神様との交わり、自然との交わり、隣人との交わりを回復されて、幸せに生きることができるのは、洗礼を受けたものだけなのか。それとも洗礼を受けていないものも救われるのか。

 その答えが、10節~11節に記されています。要するに、信仰がまず先にあったのだ、ということなのです。救いのしるしとは、救われるためのしるしではなく、救われたことへのしるしなのです。救いの条件ではありません。神様が救いと共に贈って下さる恵みなのです。これは割礼だけではなく、洗礼も同じです。

ほんとうの願い

あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。
『ピリピ人への手紙』第2章13節(口語訳聖書)

「死にたい」と言っている人が、本当は死にたいわけではないことがあります。あれが欲しいとか、こうしたいとか、私たちにはたくさんの願いがありますが、よく考えて見ると、それは見栄であったり、代用や手段であったり、諦めであったり、他者の願いであったりすることも少なくないのです。心から余計な思いを取り去って、静かな心で自分の本当の願いを考えてみましょう。すると、それは案外シンプルなものであることに気づかされます。それこそ神様が与えてくださった自分の願いです。その願いに、もっと真っ直ぐに、シンプルに生きるならば、そこには必ず神様の御助けがあります。


会堂建築(2)解体工事はじまる

神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。
『コヘレトの言葉』3:11

5月27日(日) 61年間お世話になった会堂での最後の教会学校、そして聖日礼拝がまもられる。教会学校生徒の親御さんたちも会堂との別れを惜しんでこぞって出席される。午後は、会堂建築委員会でペテロ建設と解体前の打ち合わせをする傍ら、教会員で荷物整理。

5月28日(月) 牧師館引越。

5月30日(水) 朝夕に「聖書の学びと祈り会」。いつものメンバーが集まり、解体前の会堂での最後の集会が守られる。日中は教会内の荷物整理。ひとりでやるつもりでいたが、馬場そでさんと小渕一枝さんが手伝いに来てくれる。

5月31日(木) 午前9時から教会内の荷物整理。植木孝子さんが手伝いに来てくれる。午後は小渕一枝さんが手伝いに来てくれる。お陰で予定より早く終わり、小渕さんと共に解体の日を待つ会堂で感謝の祈りをする。夜、AAのミーティング。電気のブレーカーを落として帰宅。

6月3日(日) 町屋ふれいあい館での教会学校と聖日礼拝を守る。教会学校では、準備不足が否めず、歌詞カードや出席シールの用意ができなかったが、いつも出席する高校1年生の女子と新来の年長さんの女の子の親子が出席してくれる。礼拝には23名が出席。夕礼拝は町屋新生伝道所をお借りしていたが、来会者はなかった。

6月4日(月) 庭に荷物保存用のコンテナ二台のうち一台を設置。業者によって教会の荷物の半分を納められる。エアコンなど設置物が外される。

6月5日(火)  会堂の周囲に足場が組まれ、シートが張られる。

6月6日(水) 二台目のコンテナが設置され、残り半分の荷物が納められる。廃棄される残置物の搬出がされる。

6月7日(木) 重機により解体が始まる。

6月9日(土) 塔の十字架も引き下ろされ、会堂部分の90%が解体される。牧師館部分はまだ手つかずの状態。

聖霊に導かれて歩む

神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。
『ローマの信徒への手紙』第8章14節

人がもつ信仰は、もしかしたら、人間的な信念や願望に過ぎないかもしれません。そうではなく、神の霊に導かれているのだという確信は、どうしたらもつことができるでしょうか。肉の願いは、誰もが願うことを願います。夢が叶うこと、正しさが認められること、プライドが保たれること、要するに自分が満たされることです。しかし、神の霊は、肉の願いが決して願い得ない願いへと、私たちを導きます。それは、私たちが、キリストと共に十字架につけられるということです。そのうような願いに生かされる者が、神の霊によって導かれる者だと言えるのです。


ロマ書(195)不幸とは何か②

では、この幸いは、割礼を受けた者だけに与えられるのですか。それとも、割礼のない者にも及びますか。わたしたちは言います。「アブラハムの信仰が義と認められた」のです。(4:9)

 ダビデはこう言っています。『ローマの信徒への手紙』第4章7~8節、

「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、
 幸いである。
 主から罪があると見なされない人は、
 幸いである。」

 罪がゆるされる幸いが語られています。それによって、神様や、隣人や、自然との関係を回復することができるからです。

 止揚学園の福井達雨先生が、ある夏の日、園の子どもたちと雑草を刈っていました。あまりの暑さに、福井先生はつい、子どもに愚痴をこぼしてしまいます。「雑草ってイヤな草やなあ。ほんとうに雑草なんて、あらへん方が良いのになあ。そしたらこんなシンドイ思いせんでもいいのに」すると、子どもは「ぼく、そう思わへん。雑草はどんどん生える、チェリヤ(止揚学園にいるポニー種の馬の名前)元気になる、ありがとうやろ」と答えたそうです。

 たいがいの人は、草刈りをたいへんだ、つらい、だから雑草はイヤだ、と考えるでしょう。少しでも楽をしたい。幸せになりたい。相手なんてどうでもいいと思ってしまうのです。しかし、自分中心の考え方を離れるとどうなるか。「雑草がどんどん伸びるのは素晴らしい事だ。雑草が伸びてくれるから、チェリヤがそれを食べて元気になるんだ。雑草は、自分の命を投げ出してチェリヤの命を守ってくれている。だから雑草に「ありがとう」と言わなければ」となるのです。

 どちらが、幸せな生き方をしているか。どちからが感謝と喜びを知っているか。言うまでもないことです。これが罪をゆるされ、交わりの回復に生きる者の姿なのです。
日本基督教団 荒川教会

牧師 国府田祐人

Author:牧師 国府田祐人

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